国立大学法人熊本大学




d124365-281-cd64073c0126eb03182795ad76811d2a.pdf(添付のPDFよりプレスリリースの詳細がご確認いただけます。)

(ポイント)
・明治10年(1877)の西南戦争が水前寺地域(熊本市中央区)に及ぼした影響が、細川家史料の分析から明らかになりました。
・ 交通の要衝であった水前寺地域は、明治10年2月の西郷軍の熊本侵入にともない、県庁の移転候補となりました。また、同4月には立て続けに三度も戦場となり、地域住民の多くが避難する事態となりました。
・水前寺成趣園(じょうじゅえん)の御茶屋「酔月亭(すいげつてい)」は西南戦争で焼失しましたが、具体的には政府軍の放火で焼失した事実が判明しました。

(概要説明)
熊本大学永青文庫研究センターの今村直樹准教授らは、西南戦争時における旧熊本藩主細川家の記録「明治十年変動中日記等写」を分析しました。その結果、水前寺地域をめぐる以下の新事実が明らかになりました。
1. 明治10年2月19日、西郷軍の侵入を控えた熊本鎮台は、戦略上の観点から熊本市中に放火し、焼き払います。それにともない、当時古城(ふるしろ)にあった熊本県庁は最終的に御船へ移転しますが、移転先の候補には、細川家の砂取(すなとり)絞蝋所(こうろうしょ)(現旧熊本市立体育館跡地広場)があげられていました。
2. 交通の要衝であった水前寺地域は、熊本城から脱出した政府軍vs西郷軍(4月8日)、川尻を追われた西郷軍vsそれを追う政府軍(4月14日)、砂取絞蝋所などに駐留した政府軍vs健軍・保田窪などに展開した西郷軍(4月20日)というように、短期間のうちに三度も戦場となりました。その結果、多くの地域住民が避難を余儀なくされました。
3. 当時の水前寺成趣園には、1670年代に建てられた御茶屋「酔月亭」があり、それが西南戦争で焼失した事実は知られていましたが、具体的な経緯は不明でした。しかし、上記史料の分析により、4月8日、熊本城から脱出した政府軍(突囲隊(とついたい))による放火で焼失した事実が判明しました。
 本研究の意義は、水前寺地域における西南戦争の展開とともに、当該地域の住民や細川家の関係者からみた戦争の実像を、初めて本格的に明らかにしたことにあります。

[本研究の意義]
本研究には、以下の2点の意義があります。
1. ほぼ未解明であった水前寺地域の西南戦争を明らかにしたこと
 水前寺地域の西南戦争については、前掲『県社出水神社略誌』に記されたように、水前寺成趣園の酔月亭の焼失、あるいは砲台を築くために富士築山(つきやま)が破壊されたことは知られていました。しかし、それ以外の事実が知られることはなく、水前寺地域はあまり西南戦争の影響がなかった、という印象が強いものと思われます。
 これに対して、本研究では交通の要衝であり、細川家の拠点が置かれた水前寺地域が、熊本県庁の移転、突囲隊の脱出、城東会戦などの重要な局面で、西南戦争の大きな影響を受けていた事実を明らかにしました。西南戦争や水前寺地域の知られざる史実に新たな光をあてたことに意義があります。
2. 民衆史の視点に基づく西南戦争研究への寄与
 近年の西南戦争研究では、非戦闘員である民衆に戦争が何をもたらしたのかを追究すべき、との提起がなされています。本研究は、そうした提起に答え、地域や民衆が経験した西南戦争の意味を問うものとなっています。
 いったん戦争が起これば、地域や民衆には具体的にいかなる影響がもたらされるのか。本史料は、そのような想像力を喚起させるものでもあります。熊本市民にとっても馴染み深い水前寺地域の約150年前の経験を通じて、突如として混乱状況に置かれ、一日も早く戦争の終結を求めた先人たちの姿を想起してもらえれば幸いです。

[用語解説]
※西南戦争…明治10年(1877)、西郷隆盛が率いた鹿児島県士族を中心とする反乱。征韓論に敗れて帰郷した西郷が、士族組織として私学校を結成。政府との対立がしだいに高まり、ついに私学校生徒らが西郷を擁して挙兵、熊本鎮台を包囲したが、政府軍に鎮圧され、西郷は郷里の城山で自刃した。明治政府に対する不平士族の最後の反乱。西南の役。

[公開情報]
 「明治十年変動中日記等写」の解説および一部の翻刻文からなる今村直樹「西南戦争と細川家・水前寺(上)―砂取絞蝋所『明治十年変動中日記等写』について―」が、2025年8月下旬に刊行される『熊本史学』第105号(熊本史学会発行)に掲載予定です。
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