さらにSNSという空間では、日本的な規範である「世間」が拡張され、規範を破った者を自らの手を汚さずに叩くネット特有の感情の発露とそれに伴う快楽が生じる。これは、欧米的な「近代市民の権利と義務」というよりも、歴史的に日本社会を拘束してきた「世間」の掟が、デジタル空間で極端に先鋭化した結果として捉えることができるだろう。
「祭り(ハレ)の期間だけは無礼講」が許容されなくなった社会
歴史学者の阿部謹也などが論じたように、日本社会には抽象的な法や個人の倫理とは別に、人間関係の濃密な同調圧力によって秩序を維持する「世間」という独自規範が存在している。この「世間体」の論理から見ると、だんじり批判には、「ローカルな世間(地方)」を「拡大世間(中央)」の圧力で押さえつける構図が浮かび上がってくる。
「救急車を呼ぶな」「税金を使うな」という厳しい意見は、一見すると近代的な納税者意識やフェアネスを装っているが、その実態は、古くからの世間体のテンプレである「世間に迷惑をかけるな」の最新版でしかない。世間体において「迷惑」とは、単なる物理的・金銭的損害にとどまらず、「世間の平穏な秩序や空気を乱すこと」そのものを指すからだ。
あらかじめ予測できる危険に自ら飛び込んで怪我をし、世間(医療などの公的インフラや周辺の住民)をわずらわせる行為は、世間体の基準において「最も許されざる身勝手な迷惑」と判定される。そのため、冷酷なバッシングが「世間の鉄槌」として正当化されてしまい、SNSなどでも一定の支持を集めることになる。
民俗学などの知見では、このような世間体の窮屈さを知っていたからこそ、「祭り(ハレ)」の期間だけは世間体を一時停止する知恵を持っていた側面があった。祝祭空間は一般社会などから切り離された「無縁・アジール(避難所)」とされ、「祭りの間は何をやっても無礼講」「怪我や揉め事は神事の内輪で収める」という治外法権が許容されていた古(いにしえ)の時代である。
しかし、近代化が進み、特にSNSなどメディアの拡散力が高まるにつれて、地域の祝祭空間は「拡大世間」の目を無視することが難しくなった。その結果、日常のルールを一時的に脱ぎ捨てる「聖域」が問題視されるようになり、祭りの荒ぶる身体性も、日常の平準化された世間の倫理によって断罪される傾向が強まっていった。
では、祭りの当事者の側に何の問題もないのかといえば、まったくそうではない。現代社会が抱える閉塞感と祭りにおける危険行為の心理的な効用をめぐる根本的な課題が横たわっているからだ。「伝統の名を冠したエッジワーク(自発的リスクテイキング)への耽溺」という現象である。
社会学者のスティーブン・リングは、近代の徹底的に管理・合理化された退屈な日常から脱出し、生と死、正気と狂気、制御とカオスの「境界線(エッジ)」を自らの身体技能で綱渡りすることで、強烈な自己統制感や全能感、実存的な高揚を取り戻す行為を「エッジワーク」と呼んだ(Edgework:The Sociology of Risk-Taking/Routledge)。


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