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ライフ #不安な時代、不機嫌な人々

なぜ「治療費は全額自腹にすべき」の声が噴出するのか…2名が死亡《大阪・だんじり祭り》に自己責任論が巻き起こる"真因"

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泉大津市の横転現場付近 だんじり横転
だんじりが横転する事故が起きた大阪府泉大津市の現場付近=10日午後5時32分(写真:共同通信)
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ここでポイントになるのは、「やりまわし」などの見せ場が典型だが、危険な場所に赴いたり、危険な行為をしている当事者が、「自己の技量によってリスクをコントロールできていること」に深い充足感と感情の高ぶりを感じていることにある。普段の生活では絶対に得られない、非日常的な体験による意識の覚醒である。

神聖な儀礼が「見せるためのハイリスク・パフォーマンス」へ

だんじりの現場で起きている力学をエッジワークの視点から読み解くと、単に伝統という言葉では回収し切れない現代的な落とし穴が浮き彫りになる。現代社会において、公道で重量物を猛スピードで走らせて危険を楽しむ行為は、祭りでなければ付近の住民から注意されたり警察に通報されたりして、社会的非難を浴びるだけだろう。

けれども、祝祭空間の参加者は、「何百年も続く伝統」「神事」「地域の誇り」という論理を掲げることで、内実としてはエクストリームスポーツと何ら変わらない「アドレナリンの過剰摂取」や「極限状態のスリル」に酔いしれながら、公共空間で大々的にエッジワークに没入できてしまう。

その最大のツケは、エッジワークの特権化による「境界線(エッジ)」に対する感覚の麻痺である。「部外者にはわからない神聖な伝統」へと逃げ込むことで、かえって安全管理が疎かになり、「エクストリーム化(命の危険があるほうが重要!)」が祭りのアイデンティティとなりうる可能性だ。

この懸念は、世俗化の進行とともに現実のものとなっている。かつて文化人類学者のヴィクター・ターナーが「生と死の宇宙的秩序のプロセスの象徴と関連づけられた個人の運命」と表現したように、本来の通過儀礼や宗教的祝祭における危険や苦痛は、神々の荒ぶる力への畏怖や、共同体全体の厄災を背負うという「超越的な宇宙論」の中に厳密に位置づけられていた(『儀礼の過程』冨倉光雄訳、ちくま学芸文庫)。

そこでは死や怪我は、個人が楽しむためのスリルなどではなく、共同体が神聖な秩序を維持するための不可避な代償であった。だが、現代の都市化・世俗化の中で、そうした神話的背景は急速に形骸化してゆき、「極限の身体的な快楽」という部分だけが優位になりつつあるのかもしれない。

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神仏への眼差しよりも、「どれだけギリギリの角を攻められたか」「どれだけ派手にやりまわしを決めたか」という技巧と度胸の誇示が主目的にすり替わると、儀礼性が弱まり、「見せるためのハイリスク・パフォーマンス」の性質が強まってしまいかねない。これが過剰な男性性に接続されると、「男の美学」として共同体内部の神話へ美化・昇華される筋道も出来上がる。

外部からの批判者と祭りの当事者――両者は対立しているように見えながら、実際には近代社会が生み出した「同じ実存」の表と裏という関係にある。「野蛮な伝統崇拝者vs不寛容なネット民」というあまりにも単純化された二項図式は、「生のリアリティと共同性」を失いつつある現代の深層からむしろ目を背けさせてしまう。

この双方が抱える現代的な課題を乗り越え、管理社会の息苦しさを解きほぐしながらもスリルへの無責任な依存に陥らない、新しい「集団的な生の祝祭」をもたらす回路はあるのか。そのような構想への可能性を押し広げていくことが一縷の望みである。

【もっと読みたい】「下敷きになって即死」「現場は血まみれに」…2名が死亡《大阪・だんじり祭り》が人命軽視と批判されても"続く理由" では、度重なる死亡事故が起きてもだんじり祭りが今も続いている理由について、批評家の真鍋厚氏が詳細に解説している。

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