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キャリア・教育 #秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像

秀吉も信長の葬儀に全力を注いだ…「権力者の死」で《弔いの主導権》が争われる"納得の背景"

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織田信長(写真:写真:GRANGER.COM/アフロ)
  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)

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「信雄と信孝が争っているので、二人が三法師の名代を務めるのは取りやめになった」

『多聞院日記』でそんなふうに記載されているように、清須会議で議論の焦点となったのは三法師の名代、つまり、代理をどちらが務めるかということだった。

つまり、信長は生前に嫡男の信忠に家督を譲っている以上、その信忠に何かあった場合は、信忠の息子である三法師が引き継ぐことは、すでに既定路線だった、というのが、近年の見方である。

確かに、清須会議の場所が三法師の滞在する清洲城であることからも、「後継者をいかに支えるか」が話し合う目的だったと考えるのが自然だろう。

「次期リーダー」を印象づけようとした

清須会議では、亡き信長の遺領分割も行われた。勢力を拡大させたのは、いち早く軍勢を動かして光秀征伐を果たした秀吉だ。 秀吉には河内(大阪府)と山城(京都府)の2国が分配され、 養子の於次秀勝が相続した丹波と併せて 28万石の加増となった。

我こそが信長の後継者なり――。清須会議の後も、そんな雰囲気を作ることに余念がなかった秀吉。

秀吉は京の大徳寺において、信長追善の仏事を執り行うことを計画した。葬礼もあわせて行うことで、信長の死を改めて周知させ、次期リーダーは自分だと印象づけている。

実は、権力者の死を巡る「弔いの主導権争い」は、古くは古代ローマにまで遡ることができる。

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