紀元前44年、終身独裁官のユリウス・カエサルが、元老院議場でマルクス・ブルトゥスやカッシウスら共和派の元老院議員たちによって暗殺された。
カエサルの遺言では、後継者として指名されていたのは、若きオクタウィアヌス(のちの初代皇帝アウグストゥス)。それにもかかわらず、カエサルの葬儀を取り仕切ったのは、腹心の部将マルクス・アントニウスだった。
古代の歴史家アッピアノスの記録によると、アントニウスはフォルム・ロマヌムでの葬送演説において、カエサルの血染めの衣を掲げた。さらに、回転台に載せた蝋人形に二十数カ所の刺し傷を再現し、機械仕掛けでぐるりと回転させながら民衆に見せつけている。
そうして、この暗殺事件がいかに卑劣なものだったかを改めて示したうえで、カエサルの遺言を読み上げた。それは、ローマ市民一人ひとりに現金を、さらに自身の庭園を公共の場として市民に遺贈するというもの。場が大いに盛り上がったのは、言うまでもないだろう。
改めて、カエサルの偉大さを知った民衆たちは、暗殺者たちへの怒りから暴徒と化した。暗殺者たちは身の危険を感じてローマを離れざるをえなくなったという。
葬儀の場を制したアントニウスは、その勢いのままローマ政界の第一人者となり、味方を元老院に送り込み、属州の支配権まで手にする。数年後、最終的に頭角を現したのは、後継者と指名されたオクタウィアヌスだったが、それまではアントニウスが権力を握ることとなった。
レーニン追悼行事を開催したスターリン
近代では、1924年に死去したウラジーミル・レーニンの葬儀を主導したのは、書記長ヨシフ・スターリンであった。
レーニン本人は近親者だけの簡素な埋葬を望んでおり、妻クループスカヤもまた盛大な祭儀化に反対していたと伝えられる。
にもかかわらずスターリンは、国家的な規模の追悼行事を組織したうえに、遺体を防腐処置のうえ永久保存する「レーニン廟」の建設を推し進めた。有力な対抗馬であったトロツキーはカフカス地方で療養中だったが、葬儀の日程を誤って伝えられ、式に列席できなかったとされる。
「レーニン思想の正統な継承者」というイメージを独占的に演出する機会を、スターリンは逃すことはなかった。
さらに時代を下って2011年、北朝鮮では金正日の死去に際し、その柩に付き従い霊柩車の脇を歩く金正恩の姿が国内外に大きく報じられた。
後継体制がまだ内外に完全には周知されていない段階で、この映像そのものが「次の指導者は誰か」を雄弁に語る宣言となった。銃や布告文よりも、喪服姿で柩に寄り添う映像のほうが、時に強力な政治的メッセージとなる好例といえるだろう。


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