秀吉の場合は、信長の4男で秀吉の養子である羽柴秀勝を喪主に立てつつ、葬儀の実権を掌握した。
本来ならば柩の中に納めるはずの信長の遺体は発見されていないため、秀吉はわざわざ木像を作ってそれを火葬にしたという。前述したように、アントニウスは葬儀において、カエサルの蝋人形を活用した。「遺体の代替物で民衆の感情を動かす」という点では、秀吉のやっていることも、よく似ている。
重臣の柴田勝家や織田一門の信雄・信孝が不在という異常な状況のなか、葬儀を強行した秀吉だったが、当日に邪魔が入ることを警戒していたようだ。
信長の葬儀を行った10月は、現代の暦に直せば、11月上旬となる。柴田勝家の居城である越前北ノ庄は、これから本格的な豪雪期を迎える土地であり、冬に入れば大規模な軍事行動は難しくなる。清須会議からの4カ月を葬儀の準備期間にあてたのは、勝家が動きづらくなる季節をあえて選んだ、ともいわれている。
秀吉は葬儀の警備にピリピリしていた
あと心配なのは、信雄と信孝だ。織田家の血を継いでいるだけに、担ぎ出す者が現れてもおかしくはない。現に葬儀の前に「信雄と信孝が上洛して葬儀を中止させる」という噂が流れたという(『晴豊公記』)。
こんなときに、秀吉は最も信頼できる相手に仕事を任せるのが常だった。そう、秀長の出番である。
書状で「竹田城から武具持参の軍勢とともに上洛せよ」と命じて、秀長は但馬から1000人ほどの兵を連れて、上洛したとみられている。
当日は大徳寺から蓮台野まで約2.7㎞もある沿道を3万人もの兵が警備にあたった。これを率いたのは、秀長だったという。
「ここぞ」というときに、トップリーダーが頼れるのがナンバー2だ。信長が討たれるという緊急事態のなかで、秀吉は最善と思われる手を打ち続けて、まんまと後継者に座に就いた。
その裏には、弟・秀長の裏方としての充分すぎるほどのはたらきがあったのである。
【参考文献】
スエトニウス著、国原吉之助訳『ローマ皇帝伝 上』(岩波文庫)
プルタルコス著、村川堅太郎編、秀村欣二ほか訳『プルタルコス英雄伝 下』(ちくま学芸文庫)
横手慎二著『スターリン「非道の独裁者」の実像』(中公新書)
平井久志著『北朝鮮の指導体制と後継』(岩波現代文庫)
太田牛一著、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)
杉山博編『多聞院日記索引』(角川書店)
河内将芳著『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(戎光祥出版)
河合敦著『豊臣一族 秀吉・秀長の天下統一を支えた人々』(朝日新書)
真山知幸著『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(日本能率協会マネジメントセンター)



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