INDEX
広島県竹原市の沖合に浮かぶ大久野島。前編では、この島が戦時中に旧陸軍の毒ガス製造の拠点となり、2度「消された」歴史をたどった。その島は今、「うさぎの島」として年間20万人もの観光客を集めている。転機は、数羽のうさぎと一本の動画だった。
ただし、これだけの人が押し寄せながら、地元・竹原市の経済はほとんど潤っていない。なぜこんなことが起きているのか。後編では、島の運命を変えた観光爆発の経緯と、それによってもたらされたさまざまな課題、そして、観光客との共存を目指す取り組みを追う。
「毒ガスの島」が「うさぎの楽園」になるまで
第2次世界大戦後の1950年(昭和25年)、大久野島は、瀬戸内海国立公園に編入された。
1960年(昭和35年)、戦後の混乱が落ち着き始めた頃、国民の余暇の充実を目的に「国民休暇村整備構想」が発表される。竹原市も含め、全国の地方自治体は休暇村誘致に躍起になった。候補地は66カ所にのぼったが、1961年(昭和36年)、国が最初に指定した5カ所のうちのひとつが大久野島だった。
国は毒ガス製造の歴史の闇を、休暇村という希望の光に変えようとしたのかもしれない。地元からは毒の残留を心配する声もあがったが、休暇村の建設は進められた。
その際、毒ガス関連施設はすべて撤去される予定だった。しかし、毒ガス製造に耐えうるよう堅牢に建てられた建物は簡単には壊せない。結局、このときすべてを撤去することを諦めたため、毒ガス遺構が現在まで残った。

