有料会員登録 東洋経済オンラインとは
ライフ

「台湾にいると日本のことを考え続けさせられる」。日本の植民地だと知らなかった俳優・岩澤侑生子が見た台湾演劇の熱量

16分で読める
2026年2月に岩澤さんが日本で行った絵本のリーディング公演の様子(撮影:前澤秀登)

INDEX

京都で子役としてキャリアを始め、新国立劇場演劇研修所を経て、俳優として活動してきた岩澤侑生子(ゆきこ)さん。彼女が台湾へ向かったきっかけは、台湾をよく知っていたからではなかった。むしろ最初は、「台湾という島があるらしい」程度の知識しかなかったという。
それでも台湾で暮らすうち、日本ではほとんど意識することのなかった日本の植民地時代の痕跡が、街角や建物、言葉、人との出会いのなかから立ち上がってきた。
「台湾にいると、どうしても日本のことを考えさせられてしまいます」。
昨年、文化庁の新進芸術家海外研修制度演劇分野研修員として台湾に滞在し、台湾現代演劇の現場を歩き続けてきた岩澤さんに、俳優としての原点、台湾との出会い、そして台湾演劇の魅力について聞いた。

テレビの中に入りたかった子ども時代

――俳優を志すようになったきっかけは何でしょうか?

実家は鋳造業で、お寺の鐘や仏像などを造っていました。家の周りには工場があり、職人さんたちが働いているなかで育ちました。朝起きると、鐘の音を調整するために「カンカンカン」と金属を叩く音が聞こえてくる環境です。

一番幼い頃の記憶が、母にNHKへ電話してもらっている場面です。同じ年頃の子どもたちと接する機会が少なかったからか、NHKの『おかあさんといっしょ』が大好きでした。画面の中では、自分と同じくらいの子どもたちが集まって楽しそうにしている。それを見て、「私もあの中に入りたいから、NHKに電話して」と母に頼んだそうです。

母が本当に電話してくれたのですが、年齢制限があって出られないと言われました。それがとてもショックでしたが、やはりテレビの中に入りたいという気持ちは強く残りました。

その後、東映京都撮影所の養成所に通うことになりました。最初の仕事は6~7歳くらいだったと思います。テレビの時代劇で、花魁の横に座っている禿(かむろ)の役で、それから少しずつ子役としてのキャリアを積みました。

――大学は京都造形芸術大学(現・京都芸術大学/瓜芸)の演劇系の学科ですね。

当時は映像学科と舞台芸術学科が一緒になっていたので、映像は林海象監督、舞台は太田省吾先生に学びました。林監督は映像の恩師ですし、太田先生は日本演劇界の巨匠で、私が今、演劇でやりたいと思っていることの多くは太田先生の作品から学んだものです。

ただ、大学時代には台湾のことをほとんど知りませんでした。台湾人の同級生もいましたが、日本語がとても自然だったので、外国から来ている人だという意識もあまりなかった。振り返ると、自分の経験や想像力がまだそこまで熟していなかったのだと思います。

林海象監督作品『探偵事務所5 送り火右左』のスチール(岩澤さん提供)

反論できなかった悔しさから、アジアへ向かった

――大学卒業後、新国立劇場演劇研修所を経て、東京で俳優として活動します。その後、台湾へ向かったきっかけは?

プロダクションに所属していましたが、すぐに仕事があるわけではありません。アルバイトをしながらオーディションを受ける日々でした。

その頃、アルバイト先で非常に排外主義的な考えをもつ人に出会いました。休憩時間になると、YouTubeを見ながら中国人や韓国人に対する差別的な発言をする。その時に強い危機感を覚えました。こういう人たちがこれから増えていくのではないか、と。

反論しようとしたのですが、自分には歴史的な知識や素地が足りず、うまく言い返せなかった。そのことがとても悔しかったんです。新国立劇場の研修所では戦争に関する演劇にも取り組んでいました。俳優として戦争を扱う芝居をしているのに、自分は知らないことがたくさんあるのではないかと感じました。

2/6 PAGES
3/6 PAGES
4/6 PAGES
5/6 PAGES
6/6 PAGES

こちらの記事もおすすめ

あなたにおすすめ

ライフ

人気記事 HOT

※過去1ヶ月以内に配信した記事の閲覧数