もう1つ、創業者である穂積さんが24年12月に亡くなったことが閉店に至った大きな要因の1つであるのは間違いない。穂積さんが創り上げた店はこれで一区切りにする。苦渋の決断ではあったが、そう決めた。
「時代の変化やニーズに合わせて変えるよりも、継承の思いを守り抜くことを選びました。『変化』を追いかけるのではなく、変わらない音を鳴らし続けることで、今の時代の変化を眺めていたいんです。世の中が変わっても、ここで鳴る音とお客様の間に流れる『濃密な時間』だけは、ずっと守っていきたい。それがジャズ喫茶の役割だと思っていますから」
池袋「パンセ」でジャズ喫茶の魅力を知った
穂積さんがジャズ喫茶を開店するきっかけになったのが、地元の和歌山県本宮町から上京し、日本大学芸術学部写真学科に入学したことだった。
大学の入学説明会で隣の学生とジャズの話になり、池袋の「パンセ」というジャズ喫茶に行ったことで、ジャズ喫茶の魅力にとりつかれた。
「パンセの少し前には江古田のジャズ喫茶にも行き、ミシェル・ルグランがかかっていたことに衝撃を受けました。当時は有楽町にも新宿にもジャズ喫茶があり、学校そっちのけで映画またはジャズ喫茶に行っていました。東京が楽しくて仕方がありませんでした」と、生前の穂積さんは語っていた。
穂積さんは毎日ジャズ喫茶に通ううちに、銀座の「イエナ書店」という洋書店で音楽雑誌「ダウンビート」を読むなどして、ジャズについて詳しく調べるようになった。

