ただし、既に開発を予定していた土地に関しては「告示から5年以内に着手すれば開発を認める」という経過措置があった。つまり、「多摩校地を開発するならば、75年12月25日までに着手しなければならない」と決められてしまったのだ。
それを過ぎると校地として使えなくなると、中大は慌てて審議を再開した。
そうして、73年に「文系学部の昼間部を多摩に移転し、夜間部は駿河台に残ること」と「理工学部は後楽園に残ること」が決定した。なぜ、ここまで大幅に計画が変わったのか?
実は66年に多摩への教養課程の移転計画が決まったあと、改めて中大としての教育・研究について検討する審議会ができた。そこで「教養課程と専門課程は相互補完の関係にあること」や「総合大学として学部間の協力体制が重要」といった結論が出て、実際にそれに応じた教育改革が行われていた(『大学時報』VOL.30 1981年3月「中央大学の多摩移転について」岩波一寛)。
つまり、多摩に教養課程だけ移転すれば、その教育改革を真っ向から否定してしまう。ただし、理工学部は62年に後楽園に校舎を新築したばかりで、現実的に移転は難しかったのだろう。最終的に文系昼間部のみで多摩に移ることになったのだ。
昼間部だけではなく夜間部も多摩に移転
こうして、75年に多摩キャンパスの建設がスタートする。しかしすでに工事が進んでいた翌年、中大は第2、第3、第4の“想定外”に次々と見舞われることとなる。
まず第2の“想定外”は「夜間部を駿河台に残すならば、大学設置基準上、校地の買い増しや教員の採用が必要になると判明」したことだ。昼間部と同じ施設を使っている場合に夜間部に認められる特例措置が、昼間部の多摩移転で適用外となる。つまり、改めて大学としての整備が必要になるのだ。

