中大は戦前から夜間部の比重が大きく、多くの優秀な人材を輩出していた。勤労学生の通学を考えれば駿河台に残すほうがよいといった意見は多かったが、大学設置基準を整えることは、到底不可能だった。そのため結局、夜間部も多摩に移さざるをえなくなる。これは単純に、中大の計画の不備と言えるだろう。
しかし、第3の“想定外”は、ちょっと気の毒だ。それは73年から始まったオイルショックによる急激な物価高騰で建設費が膨れ上がったことだ。単純比較はできないが、66年の最初の計画時に承認された38億7000万円に比べて、76年に見直された費用は467億円で、「(前略)10年間でじつに12倍も膨れ上がったことが分かる。」(『中央大学140年のあゆみ』)。
国土法に阻まれて膨大な赤字を抱える
そして、第4の“想定外”は、だいぶ気の毒だ。74年に施行された国土利用計画法(国土法)により、多摩の建設費捻出のために売却予定だった所有物件で、予定売価より大幅に下がるものが出てきたのだ。
結果、膨大な赤字を抱えることになり、少しでも赤字を埋めるために、手放すつもりはまったくなかった駿河台まで売らないといけなくなってしまった。
国土法では一定面積以上での土地取引には届出が必要で、取引価格が適正ではないと判断されると、たとえ売り手と買い手が合意していても、価格の引き下げが勧告される。中大の所有物件にこれが適用されたのだ。
76年6月17日の『朝日新聞』では、「大学に限って高い価格での売買を認める特例措置を講じるか、移転のための補助金制度を設けてもらわないと、移転によって大学財政は破綻してしまう(後略)」という中大の悲痛な叫びを取り上げている。しかし、東京都首都整備局のコメントは「(前略)大学だからといって特別扱いはできない」と容赦ない。
結局、駿河台校舎のほとんどを売却することとなり、大学会館だけが唯一残された。同施設は88年に駿河台記念館として建て直され、都心における学員(卒業生)の交流の場となった。

