背景として59年に施行された「工場等制限法」で、都心では大規模な工場や大学の新設・増築が制限されたこともあっただろう。
1964年にようやく「中央大学施設計画委員会」が設置され、多摩校地の活用が検討され始める。実はその時点では、多摩を売却して、他の校地を購入する案も出ていた。
しかし、「地主が買収に協力したのは『中央大学の教育施設が設置され、それと共に地元が発展することを期待していたからであって、道義的に考えても処分は困難』(後略)」(『中央大学140年のあゆみ』)という意見があり、多摩校地が第一候補に決まる。
地主への道義を重んじて多摩を選んだというエピソードが生真面目な中大らしいが、一方で、多摩ニュータウン計画の周辺地域であったことも決め手だったという。今後地域の発展が見込めそうなことや、「(前略)開発による交通事情の変化への期待(後略)」(『中央大学史紀要』第22号 2025年)があったそうだ。
また、単純に「安かった」ことも大きかったのだろう。検討された他の6つの候補地は坪単価7000〜3万5000円だったが、多摩校地はなんと約990円。「(前略)他の六ヵ所と比べて桁違いに安価であった。」(『中央大学140年のあゆみ』)。
そうして、66年に「多摩校地に教養課程を移転する」という計画が決定する。しかしこの計画は、激化する中大紛争の影響で審議が中断されてしまう。
“想定外”で右往左往した移転計画
ここから中大は、法律や規制、社会情勢、そして自らの計画の不備による"想定外"に右往左往しながら、何度も計画を変更していく。
まず、第一の“想定外”は、70年12月26日に東京都が出した八王子市に関する都市計画で、多摩校地が「市街化調整区域」に指定されてしまったことだ。「市街化調整区域」とは開発が抑制される区域で、建物の建設などは原則として認められない。

