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ういろうの元祖は薬だった?食文化研究家・阿古真理が紐解く、神奈川・富山・滋賀の「思い出のお菓子」3選

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全国各地で愛されてきたお菓子について阿古真理さんがエッセイで綴ります(画像:T.H / PIXTA)
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『ウォーカープラス』2023年8月31日配信の記事によると、菓子としてのういろうは、2代目の陳外郎大年宗奇(ちんういろう・たいねんそうき)が1395(応永2)年に京都へ招かれた際、足利義満に薬と共に献上したのが誕生のきっかけだった。

米粉と黒砂糖で製造したが、当時は砂糖自体が貴重で栄養剤として薬屋が処方するものだったため、この菓子は外郎家が薬屋だったからこそ生み出せたと言える。

棹(さお)形のシンプルなういろうは、ようかんと比較されることが多いが、ようかんが現在の小豆と砂糖を寒天で固める菓子になったのは、砂糖を国内で生産するようになった江戸時代後期。

この頃になって、今につながる砂糖を使った和菓子が次々と生み出されていく。その意味では、薬屋だからこそ製造できたういろうは、和菓子の先輩格と言えるかもしれない。

店では6種類もういろうを売っていたが、賞味期限は7日しかない。迷った末、元祖の黒砂糖入りと他のういろうと比較しやすい白砂糖入りの2種類を買った。黒砂糖のういろうはネットリと濃厚な干し柿を連想させ、今まで食べてきたものとは食感がまるで違う。昔の人も、こんなういろうを食べていたのだろうか。

ところで今回、改めてインターネットで調べた際、博多と金沢にもういろうがあることが判明した。どちらも行ったことがあるのに気づいていなかった。ういろう制覇までの道のりは遠い……。

初出:全国商工新聞2024年10月21日

五箇山で見つけた栃餅(富山県)

あれはざっと20年前。私は富山市の酒蔵へ通っていた。

富山市と言えば次世代型路面電車システムのライトレール(LRT)を日本で最初に導入した町で、北前船の寄港地だった東岩瀬港(現富山港)あたりが観光地化された。

当時は、その蔵元が東岩瀬の町家をリノベーションし、ガラス工房や蕎麦屋などを入れている途中だった。私は蔵元による町おこしについて書きたい、と思い立つ。

しかし、仕事先の編集者にその話を持ちかけても、「地方の町おこしは読者がつかない」と言われ、他の人たちにも、酒造り以外の酒蔵の話には興味を持ってもらえなかった。結局、たまたま依頼があった業界誌で、女性蔵人から往復メールで聞いていた酒造りの現場レポートを書いて終わる。

日本酒は好きだがアルコールに弱い私は、現場を指揮する杜氏(とうじ)らから信頼を得ることが難しく、経済的負担が大きいこともあって酒蔵取材自体にとん挫。

しかし、学んだ発酵の知識は今、醬油・味噌造りを理解するうえで役に立っている。依頼主だった業界誌の編集者と親しくなり、酒関係の企画があれば相談する関係になった。

酒蔵などの醸造蔵は、商品が発酵食品で製造に何カ月もかかるので、庄屋など富を蓄積した人たちが始めている。そのため、地域の暮らしを守り栄えさせるために蔵元がインフラを整える、町づくりをする、といった展開は昔からあった。

例えば平成初期に大ヒットした酒造り漫画『夏子の酒』の続編『奈津の蔵』は、昭和初期の新潟県の農村が舞台。奈津の夫で蔵元の善造が、「蔵は村と苦楽を共にする」と語る父から、寄付金を出して向こう3年間の村の電気代まで負担する、という証文をもらい、村に電気を引く。

富山の蔵へ通っていた頃、私が取材していた蔵人の女性が車で五箇山(ごかやま)へ連れて行ってくれたことがある。五箇山は富山県の南西端に位置し、岐阜県の白川郷と共に1995(平成7)年、ユネスコの世界文化遺産に登録された。合掌(がっしょう)造り特有の急こう配の屋根は豪雪に耐えられるよう形づくられている。

五箇山の集落に残る家々は江戸時代末期から明治時代初期の建物だが、最も古いものは17世紀に建てられた可能性がある。主産業は火薬の原料となる塩硝(えんしょう)をつくることで、養蚕、紙漉(す)きも行っていた。

「紐(ひも)でくくる豆腐があるんですよ」という誘い文句につられるまでもなく承知した。何しろ、古い建物好き。合掌造りをナマで観られる機会を逃すはずもなかった。

集落は山に囲まれ、初秋のその頃、まだ田んぼには稲が植わっていた。紐でくくる堅豆腐はもちろん購入したが、売店でテンションが上がったのは、パック入りの栃餅を見つけたときだった。

栃の実はアクがとても強い。『栃と餅』(野本寛一、岩波書店)に紹介された白川郷も近い岐阜県奥美濃地域では、乾燥させておいた栃の実を1週間流水にさらし、さらに桶に入れて灰を混ぜ、熱湯を注いでふたをし、一晩置いておく。

縄文時代から食べられてきた栃には、各地でそれぞれ工夫したアク抜き法が残っている。東北地方から山陰・四国まで広い地域で食べられてきたが、救荒食の側面が強かった粥や粉食の食べ方は廃れ、残っているのは栃餅ぐらいだそうだ。

私が栃餅に出合ったのは小学生の頃、一度だけ母の故郷、広島県の山村へ正月に行った折だ。搗(つ)いた餅の中に栃餅があり、ナッティなその味に、栗より香ばしいと感動した。

栃餅 *写真はイメージです(画像:Caito / PIXTA)
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