栃餅の話は、『うちのご飯の60年 祖母・母・娘の食卓』(筑摩書房)を書いた折に母から聞いている。幼少期は祖母が拾った栃の実を何日も水にさらしてアク抜きをしていたが、ある時期から栃粉が市販されるようになり、イチからつくることはなくなったそうだ。
製造が工業化されても希少なのか、東京で栃餅を見かけることはめったにない。懐かしい田舎の香りがする集落で、素朴な餅を見つけた私は満足だった。
初出:全国商工新聞2024年8月19日
丁稚ようかんを求めて(滋賀県)
「丁稚ようかん」とは、寒天の代わりに小麦粉を使い、竹の皮で包むようかんのこと。名前の由来は給料が少ない丁稚でもお土産に買えた、という説と、あんこと小麦粉を練り合わせる工程から、和菓子用語でこね合わせる意味の「でっちる」が転じた説などがあり、起源の時期も定かではない。
私が出合ったのは2005(平成17)年、滋賀県北部の木之本町(現長浜市)に泊まった折だった。
その年、私は転げ落ちるようにうつが悪化し、病院通いを始めていた。身体が重くて精神状態も最悪だったが、パリへ行く話が持ち上がっていて、行くか行かないか決められずに立ち往生している。
同じ頃に学生時代からの友人たちが「関西と東京から、琵琶湖で落ち合う旅行をしよう!」と誘ってくれたおかげで、ようやくパリ行きを断念できた。
友人たちとは琵琶湖の北東部にある長浜で集合するが、夫の提案で前日に木之本町に寄ることになった。小さな町だが、北国街道などの宿場町として栄えた過去がある。登録有形文化財の建物が点在する町の風情を楽しみ、近くにある余呉湖をレンタサイクルで回る。
羽柴秀吉と柴田勝家が信長の後継の座を争った舞台の賤ケ岳もあったが、歩くのもしんどい状態だったので行かずに、情報量が少なく静かな町周辺で満足した。20代前半、キャンプや取引先の工場へ行くのにしばしば訪れた滋賀県が、実はけっこう歴史の舞台だったことに気づいたのはそのときである。
散策中に見つけたのが丁稚ようかん。プルンプルンの薄い形が気に入って、お世話になっている方に贈る手配をした。食文化を専門にするようになると、人に贈りたいものを自分用にも買ってみることが多くなったが、当時はそんな発想がない。そもそも好奇心が枯渇していたときだったから、同じく町にある醬油醸造蔵で醬油を買ってみる勇気も出なかった。
ただ、丁稚ようかんを自分が食べ損ねたことは後になって悔しくなり、「いつかは滋賀で丁稚ようかんを買う」と決めた。
チャンスが到来したのは、2024(令和6)年の秋。いつか行きたいと思っていた滋賀県近江八幡市へ出かけることになったのだ。私の母校のキャンパスを設計したウィリアム・メレル・ヴォーリズの本拠地だった場所であり、仏教色が濃い土地で建てた洋風建築も見たかったのだ。ヴォーリズ記念館で解説を聞き、建てた住宅を見学し、カフェなどとしてリノベーションした元住宅がある町外れまで歩いた。
ヴォーリズは1905(明治38)年、宣教師として近江八幡に赴任した。熱心過ぎる布教が町の人から反発を招いて英語を教えていた学校を解雇されるが、学生時代に志したもう1つの道、建築に活路を見出す。日本各地の教会やキリスト教系私立校、個人住宅などを手掛け、縁あって華族の一柳満喜子と結婚している。
ドラマチックな人生は小説に描かれ、評伝もある。私はスパニッシュミッションスタイルで伸びやかなヴォーリズ建築の空間で過ごしたことで、暗黒時代だった10代を乗り切れたのだ。
丁稚ようかんに再会したのは、土産物店だった。ついでのように売られている商品を見た時点で、「これでよいの?」と自問すべきだった。帰宅してパッケージを開けてみると、木之本町で見た丁稚ようかんと違い、なんだかパサパサしている。
こういうものなのか? 改めて調べると、丁稚ようかんは各地にあるが、滋賀県では近江八幡が発祥。元祖を謳う「和た与」は1863(文久3)年に創業し、現地では気づかなかったが、私が歩いたエリアに店を構えていた。
リサーチ不足というか、行く前にヴォーリズ建築のことで頭がいっぱい過ぎた。肝心の建築については、あちこちのスポットで管理する人たちとヴォーリズ談議に花を咲かせ、ファンとしては幸せな時間だったと思う。カフェでいただいた紅茶もおいしかった。ただし丁稚ようかんは悔いが残る。次の機会にはきっと、丁稚ようかんを目的に入れると心に誓う。

