秀吉の没後、三成は豊臣政権の維持に尽力したが、徳川家康との対立から1600年の関ヶ原の戦いに追い込まれ、東軍(徳川勢)の勝利後に処刑された。
西軍(豊臣勢)の本来の総大将は毛利輝元なのだが、輝元は大坂城に陣取って戦地に出陣しなかったので、いかにも三成こそが西軍のボスであるように印象づけられた。
「徳川=正義」という価値観の江戸時代は三成サゲが定着する。ことに儒学者の頼山陽が記した『日本外史』では、家康を苦しめた陰謀家扱いだ。ただし、徳川光圀は三成の豊臣家への忠誠心の強さを好意的に語っていた。さすが水戸のご老公は懐が探い。
明治維新後も、武人と比較して文官を軽視する考え方が強く、三成の人気は低かった。
だが、21世紀に入るころから戦国期の研究が大きく進み、「戦に勝つばかりでなく、統治するのが大変なんだぞ」という視点からも、三成の株が上がってきている。
「君」から「殿」に変わったワケ
淀殿(茶々)は、かつて戦国時代が舞台のエンタメ作品では、よく「淀君」と記されていた。これは大坂夏の陣で豊臣家が敗れたあとに広まった呼び名だ。
室町時代には町中にいる遊女を「立君(たちぎみ)」とか「辻君(つじぎみ)」といい、女性に「~君」とつけるのは風俗嬢のように見なして貶めるというニュアンスがある。
もっとも、実際に淀殿と呼ばれた機会は少なかったようだ。豊臣秀吉の子である秀頼を出産したあとは、「御袋様」などと呼ばれていたらしい。
長らく、淀殿のイメージはあまりよくなかった。端的にいってしまえば、秀吉との歳の差が大きな理由だろう。淀殿は秀吉の側室に迎えられたとき10代後半で、現在の女子高生ぐらいの年齢だ。対して秀吉は50歳前後ときている。
おかげで、秀吉が地位と権力で一方的に迫った関係か、ワガママ娘のお姫様である淀殿に秀吉が振り回されていたように解釈される場合も少なくない。
加えて、淀殿が産んだ秀頼は、体格も性格も秀吉に似てないので、別の男との間に生まれた子だったという説も根強い。
しかしながら、江戸時代に「徳川=正義、豊臣=悪者」という視点で書かれた軍記物の検証や、豊臣家関係者の書簡、豊臣家と接点のあった寺社や公家による記録などを調べ直すことによって、淀殿の見方もずいぶん変わった。
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【実は臣下からの人望も高かった】
