大坂城で華やかな生活を送るばかりでなく、豊臣家を守るために尽力し、臣下からの人望も高かったのだ。
あえて母の仇とともに生きる道を選ぶ
淀殿こと茶々は、戦国時代屈指のセレブ家庭の姫様だった。父は近江(現在の滋賀県)の小谷城主を務めた浅井長政、母は織田信長の妹である市だ。茶々の下には妹の初(常高院)、江(崇源院)がいる。
この浅井3姉妹、よく知られているように、のちに初は若狭(現在の福井県)の小浜藩を治める京極高次の正室となり、江は2度の結婚を経てから江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠の正室となった。
5歳のとき、父の長政は1573年の小谷城の戦いに敗れて自刃。のちに母の市は柴田勝家と再婚したものの、信長の死後、1583年の賤ヶ岳の戦いで勝家は秀吉に攻め滅ぼされ、市は夫と運命をともにした。
このあと、茶々は関白となった秀吉の側室に迎えられる。その正式な時期はわかってない。ともあれ、1589年ごろには山城(現在の京都府)の淀城に住まうようになり、淀殿あるいは淀の方と呼ばれるようになった。
エンタメ作品では、秀吉はかつて市に横恋慕していたので、その娘である淀殿に執着したという解釈や、淀殿のほうは母の市を死に追いやった秀吉を憎んでいたという解釈がたびたび見られる。秀吉をひたすら性格のゆがんだ非モテ男として描いた山田風太郎の小説『妖説太閤記』は、そのいい例だ。
もっとも、この解釈に明確な証拠はない。戦国の世において、主家と嫁ぎ先が敵対することも、もとは敵だった陣営に嫁ぐことも日常茶飯事だった。淀殿は覚悟を決めて、豊臣家の人間として生きることを選んだのだ。
1590年の小田原攻めのおり、秀吉は戦地に淀殿を呼び寄せた。このとき、京都にいた正室のねね(北政所)のもとに送った書状には、「淀殿は自分の気に合うように細やかに仕えてくれる」と記されている。
少なくとも、若くワガママな淀殿が秀吉を振り回したという図式ではなく、淀殿はかなり秀吉に従順に尽くしていたようだ。

