実際に三成が秀吉に仕えた正確な時期はわからない。秀吉配下の家臣に関する手紙や記録を見る限り、少なくとも、1583年ごろには重用されていたようだ。
三成は、ひたすら秀吉に忠実ながら、頭が固くて陰険な人物とされる場合が多い。もっとも、実際には秀吉の命に反しても、穏便にことを進める配慮もしている。
1592年の朝鮮出兵(文禄の役)のおり、日本にいる秀吉は「とにかく一気に朝鮮から明に攻め入れ!」とせっついたが、小西行長ら前線の将兵は、周囲の人間はみんな敵という異国のど真ん中で孤立し、兵糧にもこと欠く事態に陥っていた。そこで三成は、現地の将兵に配慮して進軍を緩め、食料や武器の補給に努めた。
はたまた、1596年に秀吉がキリシタン弾圧を始めたとき、京都所司代の任にあった三成は、処罰対象者のリストから高山右近を外してやった。秀吉は捕縛したキリシタンの鼻と耳を削ぐように命じたが、実際には片耳を削ぐだけで済まされた。これは三成の配慮だったらしい。
秀吉の命でも、無駄な流血は避けたかったようだ。
平和な時代ゆえの領民への細かい指示
三成が自分の領地である近江(現在の滋賀県)の佐和山で、領民に下したお触れが残っているが、その内容はとにかく細かい。
年貢として収める米の量、その計量のやり方などのほかに、勝手に田畑の所有権を移すな、過去に自分の田畑であった土地でも検地のときに決まった所有権に従え、農作業がイヤになったからといって勝手に田畑を離れるな、村から逃げ出して武家の奉公人になることを禁じる、村から逃げ出した者がいれば通報しろ、村内で困ったことがあれば遠慮なくいつでも届け出ろ、ただし筋が通らない訴えを申し出た場合は処罰する……などなど。
領民にここまで細かい指示をしている大名はなかなかいない。
とはいえ、戦国の世においては、農民と武士の区別も完全に明確ではなく、農民も武装して田畑や水源を奪い合ったり、田畑を捨ててどこかの武将に仕える足軽になったり、山賊になったりする者が絶えなかった。
秀吉の天下統一によって戦のない世が実現すると、戦場で軍功を挙げるばかりでなく、民をキッチリと管理する三成のような統治者が必要になってきたのだ。
だからといって、三成は内政が上手なだけで戦を嫌うひ弱な男ともいい切れない。朝鮮出兵では、みずから危険な最前線にも出陣して負傷している。戦闘のない平時も鷹狩りに凝っていたが、当時の武士にとって、狩りは野外での軍事訓練を兼ねた行事だ。
次ページが続きます:
【西軍の本来の総大将は毛利輝元】
