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中国古典の「徳」には何が欠けているのか~明治一オモロイ経営者・朝吹英二③『明治実業家の知識・見識・胆識』特別編

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東京駅からは、日本橋エリアに建ち並ぶ三井の象徴的なビル群を一望できる(撮影:尾形文繁)
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しかし、そんな中上川が、必死で工業化路線を進めているさなか、不景気が襲来、工業化路線を担う会社が、軒並み赤字になってしまう。

当然、そこに巨額の投資をしていた三井銀行自体も、経営が悪化、それを新聞に書き立てられて、取りつけ騒ぎまで起こってしまった。

中上川を三井銀行立て直しのために送り込んだのは、政界の重鎮・井上馨だったが、そんな井上馨にしても、中上川のやりすぎの改革――藩閥政治家への厳しい取り立てや、井上の取り巻きの会社への融資拒絶など――に、次第に反発を強めていて、この不景気をきっかけに、中上川を切る方向に動き出す。

さらに、こうしたストレスが身体を蝕んだのか、中上川自身が病気に倒れてしまう。腎臓病だった。

彼は美食家で有名であり、それが良くなかったのかもしれない。結局、治療の甲斐なく、47歳の若さで亡くなってしまう。

「安全・確実」に路線変更

中上川の後は、益田孝が継いだ。

三井の全権を握って切り盛りするが、中上川の工業化路線を収縮し、「チャレンジして成長」から「安全・確実」の路線に舵を切った。

しかしそんな益田孝も、大正2(1913)年に、66歳の働き盛りで三井の実質上の総責任者を勇退し、団琢磨に後を譲った。

自分の後任として、まず朝吹に「やってくれないか」と声をかけたのだが、彼が固辞したことと、慶應義塾出身者(朝吹もその1人)の派閥が三井内にできてしまい、社内の融和を阻害していることもあって、あきらめた。そこで、マサチューセッツ工科大学出身の団琢磨を後継者に据えている。

もちろん益田は、その後も三井から完全引退はできず、ある程度関わり続けた。ただし、基本的には悠々自適の生活を、90歳で亡くなるまで送っている。

とくに趣味の茶道に邁進し、茶の世界を究めて、「千利休以来の大茶人」とまで呼ばれている。

ちなみに、そんな彼を、若干苦々しい目で見ていたのが、渋沢栄一でもあった。

相手の話を否定せずに、やわらかく包み込みながら会話するのが得意だったという朝吹(出所:国会図書館「近代日本人の肖像」 )
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