道長記した「御堂関白記」が"世界に誇れる"凄い訳 道長自身は後世に残すつもりはなかったが…

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日記から書いた人の性格がわかることもあります。では、道長はどのような人だったのでしょうか。日記からは、道長は感情を露わにすることが多かったことがわかります。その感情の1つは怒りです。

藤原顕光(関白・藤原兼通の嫡男)は家柄はよかったのですが、無能の大臣として有名でした。自分勝手に儀式や仕事を進めようとしたり、他人の忠告も聞かず、人々からも軽蔑されていました。

そんな中、1010年1月に敦良親王(一条天皇の第3皇子。母は道長の娘・彰子)の、誕生50日目のお祝いが行われます(五十日の祝)。

その儀式の際、顕光は、天皇の御前の食膳を取ろうとして、それを打ち壊すという粗相をしてしまうのです。

これには、道長も「無心」(分別がない)と日記に、呆れとも、怒りともとれる想いを記しています。

呆れた感情も日記に残す

1012年には、大臣以外の官を任ずる朝廷の儀式(除目)に遅刻することもあった顕光。普通ならば「すみませんでした」と謝ることでしょうが、顕光は違いました。

「これまでにも、大臣の遅刻の際はこのようなものだった」「花山天皇のときの源雅信と藤原為光の例を自分は見たのだ」と、儀式に遅刻したことを、「先例」らしきものを持ち出して、正当化しようとしたのです。

道長はそのような先例はないとして、顕光のことを「目の前の非難を避けるために、ないことでも作る人だ。時々、このようなことを言う人だ」とまたまた呆れて日記に書いています。

ちなみに、顕光は何でもかんでもやりたがるところもあったようです。1016年1月、顕光は、逢坂・鈴鹿・不破の3関を固め警備体制を敷く「固関・警固の儀」の担当者になりたいと願い出て、許されます。しかし、またもや、儀式の進行でミスを連発しました。

これを見た道長は「無理矢理に上卿(儀式を担当する公卿)を務め、多くの失態をして、ほかの公卿に笑われるとは。大馬鹿の中の大馬鹿だ」と顕光を罵倒したとされます。このエピソードは小右記に書かれている話です。

道長は陰でコソコソと人の悪口を言うのではなく、本人の前でもしっかり叱っていたようです。そうした意味で、サッパリした性格だったのではないでしょうか。

(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『藤原道長の日常生活』(講談社、2013)
・倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」を読む』(講談社、2013)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数
X: https://twitter.com/hamadakoichiro
 

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