「昼は研究、夜は定時制高校で、働く若者たちを教える」。ノーベル医学・生理学賞の受賞が決まった大村智先生の、経歴の一端を報道で知って、私はフッと江戸中期の学者・細井平洲を思い出した。
平洲は儒学者だが字句の解釈や規矩にこだわる人物ではない。知多半島平島村(愛知県東海市)の出身なので、号を「平洲」とした。江戸で開いた塾を「嚶鳴(おうめい)塾」と称した。嚶鳴というのは鳥の鳴き声のことだが、平洲は「単に鳴いているのではなく、社会問題を論じ合っているのだ。諸君もそうあってほしい」と門人たちに告げている。
まず課題について自分の考えをまとめる。これを同門の友人と討論する(対話)。次に門人全員の意見を聞く(討論)、というように対話と討論など門人の自主活動を重んじた。幕末の長州松下村塾における吉田松陰の教育方法も同じだ(というより松陰が平洲の影響を受けたのだろう。松陰は平洲の『嚶鳴館遺草』という、愛民に基づく改革指導書を読んで感動した、という説があるので)。平洲は呼ばれなければ顔を出さない。
彼はよく両国橋のたもとに出掛けた。この橋のたもとには明暦の大火(振り袖火事)の後、被災地の復興と活性化のために盛り場が設けられた。いろいろな大衆芸能(落語・講談・ガマの油売りなど)の芸人たちが芸を競った。
いつの頃からか平洲も参加するようになった。初めは白い目で見られた。しかし平洲の選ぶテーマの身近さ、生活に密着したプロット、表現の優しさ、得られる感動に魅せられて、ほかの芸人を圧し平洲の前に集まる聴衆が最も多くなった。
そして「今日はこのあたりで」と平洲が話を締めくくるとき、聴衆たちは皆、拳を目に当てて泣いていた。芸人たちは圧倒され、自分たちも平洲の話を聞いて、その内容・話法から多くを学んだという。
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