文化庁が京都に移転するかも、という報道があった。考えてみれば江戸時代の政府(幕府)機能は、歴史的必然から江戸集中ではなかった。皇室機能と文化機能は京都にあり、財務機能と通産機能は大阪(当時は大坂)にあった。外務・貿易機能は長崎にあった。すべて現場との直結による分散だ。
三代将軍・徳川家光の時代に参勤(大名が江戸城に勤めること)、交代(任期の終わった大名が領国に戻ること)が制度化された。同時に人質的に江戸に住まわされていた、大名の正妻と世子(次期藩主)の江戸居住が義務化された。大名家(藩)では江戸に藩邸を構え、江戸勤務の家臣・侍女などが増え、必然的にこの世話をする商人・職人が必要になった。幕政初期の頃は前述のように幕府機能が分散していたから、江戸での必要機能は現在の内閣府・官邸・総務省あたりがあれば、幕政は滞らなかった。
それが、町人(商人・職人などのいわば市民)が激増した。江戸がにぎわい始めると、地方の特に若者たちが雇用の創出を狙って、「江戸に行けば何とかなるさ」とクワを放り出して流入してくる。やがて“百万都市”と世界一の人口に達した江戸は、その半数が町人だといわれるまでになった。
膨張した市民(町人)を正規に政治と行政の対象にしたのは、八代将軍の徳川吉宗だと思う。それまでも歴代将軍がまったく市民に目を向けなかったわけではないが、幕府の政策の一環に正しく位置づけたのは、吉宗だ。
現在の東京銀行協会ビル(東京都千代田区丸の内)の敷地には、江戸時代は評定所(幕府の最高裁判所)があった。人の出入りが多い。吉宗はこの門前に「目安箱」を設置した。投書箱である。目安というのは羅針盤のことをいう。今の民主主義に即結び付かないとは思うが、とにかく吉宗は「建設的な意見は幕政に反映させる」という気持ちは持っていたのだ。
この記事は有料会員限定です
残り 633文字
