講演会場でよくペンネームの由来を聞かれる。春風亭柳昇さんの口癖を借りれば、ドーモン(童門)などと名乗るのは“日本でワタシただ一人”だからだ。この名の由来には実は長い話があるのだが、講演会場でそんな話をしてもシラける。そこでワタシは“その場限り”の拙速説明で済ます。「お忙しい中、お時間をお割きくださったみなさんに、何のお役にも立てなかった私の駄話を恥じてのお詫びの意味なのです。今日は本当にドウモンスミマセンでした、と」。会場は沸く。90%はこれで通す。先代の林家三平さんからのイタダキだ。では本当の由来というのは何だろうか。
1948年(昭和23年)私は20歳だった。日本の国も世界も混乱していた。私も混乱していた。活字飢餓症の私は書店で一冊の雑誌に目を留めた。『新潮』。粗末な紙に印刷したものを16ページ単位でホチキスで留めた製本だった。表紙はいわばパートカラーによる大きな蝶。そして巻頭からの小説が『斜陽』。太宰治さんの作品だ。ページを開くと活字がいきなり私の目に飛びかかってきた。機会を待ちに待っていたごとくにである。
私は魅せられた。取りつかれた。この日から私はダザイストになった。すでに出ている作品をほとんど全部読み尽くした。戦前からユニークな作家活動をされていたのを私は知らなかった。しかもこの年の6月、太宰さんは山崎富榮さんと玉川上水に飛び込んだ。当時の玉川上水はコンクリートの護岸工事が完全ではないから、激しい水流にえぐられて両岸が深い穴のようになっている。その穴に引っ掛かって二人の遺体は約1週間発見されなかった。
発見されたのは6月19日。この日を忌日にして昔は三鷹(東京都三鷹市)で記念法要が行われた。名付けて「桜桃忌」。言いえている。太宰ファンがいっぱい集まった。太宰さんに近い人々の間で内輪もめもあった。「おまえにはこの会を仕切る資格はない」などと。それより私が腹を立てたのは、墓参のときに若い人々が太宰さんのお墓の前のお墓を踏みつけにしたことである。墓の主は森林太郎、鴎外先生だ。マスコミのカメラに入ろうとしての所業だ。以来私は参加しなくなった。仕事場近くで一人で桜桃忌を営んでいる。サクランボをテーブルに載せて酒を飲むだけだが、毎年続けている。先年、このことを知った太宰さんの遺児太田治子さんが加わってくれた。
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