愚直に続けたから 成功した、ワケじゃない

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ホッピービバレッジ
代表取締役社長

石渡美奈

オーナー企業に求められる
「創業家の安泰」

ホッピーといえば、お酒飲みの人たちから愛される人気の飲み物だが、石渡美奈氏はそのホッピーの看板娘としてTVやラジオなどのメディアでおなじみの有名社長だ。一時は売り上げが激減し、会社存続も危ぶまれたが、創業家の3代目として手腕を発揮したのが石渡氏だった。同族企業ならではの派閥争いや社員のクーデターを経て、劇的なV字回復を達成。そんな女性社長の成功の秘訣、そして、同族オーナー経営者としての生き方について聞いた。

幼い頃から跡継ぎを意識していたが
自分のこととは直結しなかった

――オジサマたちに愛されるホッピーの女性社長、しかもオーナー企業の3代目社長ということで、これまでも各方面から注目を集めてこられました。ラジオでも有名なパーソナリティーですね。

石渡私がメディアに登場し始めた2000年代前半は、ちょうど女性経営者という存在が注目され始めたときでした。しかも、「あのホッピーの社長が女性?」というミスマッチ感もあって、TVをはじめ、多くのメディアから注目していただきました。私どもは中小企業ですから、CMを打つような潤沢な資金はありません。自分たちで考えてやれることは片っ端からやってきたつもりです。

 ですから、成功の要因を聞かれても、よくわからないというのが正直なところです。いろいろな取り組みをしてたくさんの失敗もしてきましたが、その中の一つの成功がまた次を呼ぶという好循環が続いて、いつの間にか気づいたらこうなっていたというところです。

――それにしても、パワフルですね。昔から活発だったのでしょうか?

石渡小学校3年生からです(笑)。私は赤坂で育ちましたが、石渡家はもともと千葉県白子町の出身です。曾祖父が自分の披露宴で使う魚を買いに行ったとき、その魚屋のお嬢さんに一目ぼれして駆け落ち。知人を頼って、赤坂にやってきました。とんでもない話ですよね。

 曾祖父は大工でしたが、祖父に商売の才覚があり、陸軍御用の餅菓子商を10歳から始めました。その後、海軍を通じて日本にラムネがやってくるという情報をいち早く得たことがターニングポイントになりました。餅菓子は材料に砂糖も使いますから、当時、貴重だった砂糖が手に入る。そこで、その砂糖を使って、ラムネをつくってみないかと誘われたことで、1910年、祖父が15歳のときに秀水舎という会社をつくったんです。祖父が餅菓子商を始めなければラムネはつくれなかったので、私たちの会社の始まりは1905年、今年で創業113年目になります。

――そんな歴史ある会社の、オーナー社長のお嬢さんとして育ってこられた。どんなお子さんだったのでしょうか。

石渡同族会社ですから、小さい頃からこの子は将来どうなるのかと周囲に注目されているのを感じていました。一人っ子でしたから、家庭で接するのは大人のみ。どうしても耳年増になるんです。幼い頃から、両親の会話を聞いて、会社にはいろんな問題がありそうだなと何となく理解していました。

 そして、当時は女性が社会でバリバリ働く時代ではありません。高校を卒業して進学するにしても、短大か四大の文学部という時代。自分が跡取りだという認識は物心ついたときからありましたが、自分が実際に継ぐということとは直結しなかった。「男だったら」と思ったことはありませんが、跡取りという立場をどう形にしていいのかわからなかったというのが本音です。

オーナー企業を左右するのは
マーケティングでも技術力でもない

――実際には、97年、29歳の時に入社されています。

石渡この会社は自分が継ぎたいと思っていました。自分は仕事が好きだという瞬間があったこと、父が地ビールの免許を取得して、家業が面白く感じられたこと。それらが理由となって、入社しました。ただ、同族経営にありがちなことですが、社内にはいろんな火種がありました。派閥はありましたし、父ともガチンコのケンカをしました。

 まず入社早々、干されましたよ(笑)。仕事が何もない状態です。でも、ありがたかったのは青年会議所という居場所があったことです。そこで他企業の同世代以上の仲間からかわいがってもらったので、思い切り青年会議所の活動に没頭しました。結果的に、そこで先輩たちから経営の基本をたたき込まれることになりました。

 たとえば、構想力や行動力、あるいはギリギリまで頑張って形にする力。そして、その先に大失敗はないという確信でしょうか。同族会社では事業承継の際、クーデターのようなものに遭いやすいんですが、その具体的な経験談を先輩たちから聞いたことが自分の大きな財産になったと思います。そのおかげと言いましょうか、実際に社内で工場長のクーデターが起きた時にも「ああ、これか」と冷静でいることができました。

――「オーナーの娘」という立場から、「経営者」としての自覚を持ったのはいつ頃からですか。

石渡やはり社長になってからですね。結局、オーナー企業の業績を左右するものは、マーケティングでも技術力でもない。創業家が安寧、安泰であることが重要だと考えています。実際、経営がうまくいっている同族会社ほど、一子相伝で創業家がしっかりしていると感じています。

――その意味でお伺いしますが、ファミリービジネスを革新されるための秘訣とは何でしょうか。

石渡一つは愛情でしょうか。会社や家業に対する強くて深い愛情。私は幸いにも、創業者の祖父とは中学一年生まで一緒に過ごすことができました。仕事をしている祖父の印象はあまりないにしても、人柄はものすごくよく知っている。祖父が亡くなったとき、あの大きな青山斎場が花輪で埋め尽くされました。私は気がつくと、花輪を数えていました。その経験が子供ながらに、祖父の偉大さに触れ、リスペクトするようになったきっかけでした。

 その祖父が生んだ事業ですし、2代目の父も寝食を惜しんで仕事をしてきたことをよく知っています。この二人が命をかけて続けてきた事業を守って育てたい。今でも時折、祖父が私の体を使って仕事をしていると感じる時があります。そんな思いを持っているのは創業家の特権かな(笑)。

娘が会社を継ぐのは
父のことが大好きだから

――それだけ会社に愛情があるということですね。

石渡工場のラインでホッピーの瓶がぶつかり合って、「カン、カン」と鳴る音は、私の幼少の頃の原体験の音です。ホコリだらけで戻ってきた瓶がまたピカピカになってラインを行進していく様子を見ていると、かわいくてしょうがないんです。音を聞くたびに、「この子たちを守るために頑張らなきゃ」と思うんです。瓶たちは精いっぱい頑張っているから、もっとおいしく飲んでもらって、もっとお客様に喜んでもらう努力をしよう。そう私たちも思うことができます。

――もともと創業家の女性は、経営に関するポテンシャルが高いように感じます。

石渡それは、どうですかね。私自身で言えば、両親から受けた家庭教育と、母校である田園調布雙葉の一貫教育の影響が大きいと思います。同校の校訓は「徳においては純真に 義務においては堅実に」というものです。実際、校風も厳しかったんですが、その校訓は商いにも通じるものがあると思います。

 私たちの会社も「お客様に安心して召し上がっていただける製品づくり、お客様に自信を持ってお売りできる製品づくりを」という創業者である祖父の言葉を企業理念として掲げています。実際、ホッピーはすべて本物の材料でつくられた本物の商品です。祖父や父が苦労してつくりあげたものです。そんな会社の足跡を見ていると、母校の校訓に通じるものがあると感じます。

課題が困難に思えるほど
燃えてくる

――会社では、人材教育に力を入れていらっしゃいます。

石渡社員一人ひとりが、この会社で心を磨き、自分を知り、生きがいを持ってほしい。そうした思いもあって、「人財」教育を重視するようになりました。

 でも、社員から見れば、私の愛情が重すぎて、うざったいかもしれません(笑)。社員をかわいがらない社長なんて世間にはいないと思いますが、それでも、もし社長の愛情選手権大会でもあれば、私は必ずトップ5に入る自信があります。愛情もあるから、しかるときもすごい。社員たちの間では、「プラチナノック」と恐れられているそうです。私は明るいけど怖いんです(笑)。でも、感情で怒っているわけではない。あくまで社員のためを思っての行動なんですよ(笑)。

――落ち込むことはないんですか。

石渡大なり小なり毎日トラブルがありますから、落ち込んでいる暇がないです。ただ、自分の性格として、課題があると燃えるというところはありますね。課題は乗り越えるためにあるので、課題が難しそうに見えれば見えるほど燃えますね。これを乗り越えたら、もっと上に行ける。あきらめたら高みへの道が断たれる。だから信念をもって本気で挑み、乗り越える、そう考えています。

――もっと上に行ける。そう思うのは経営者だからですか。

石渡わかりやすく言えば、中小のオーナー企業の社長は360度見ることができるので、経験値が割とある。そのおかげで経験のデータベースも豊富になるので、勘も働きやすいのかもしれません。経験値と自分の持っている第六感が基になって、「次の一手はここだ」と決断のメドをたてる。その決断の正しさを確かめるために仮説を立てて動く。でも、その仮説が正しいかどうかは、10年後、15年後にみないとわからないというのが社長としての本音です。

 ある意味では、大胆さと繊細さという相矛盾したものを二つ持たなければならないのが、オーナー社長の特徴だと思います。大胆ばかりでも、繊細ばかりでも駄目。その両方を持っていないとうまく経営はできないと思います。

なかなか結果が出ないものこそ
愚直に続けていく

――オーナー社長は日々をどんな感覚で過ごしているんですか。

石渡つねに心地よい緊張感を持って毎日を走っている感じですね。社長は社内で最も高い視座から会社の将来について考え、その将来のための種まきをする立場にあります。つねに先を走り、先に起こることを予見しなければなりません。でも、行きすぎると社員が付いてこられなくなる。そこは気をつけないといけません。それもあり、弊社では年4回、社員たちと30分の1対1の対話の時間を持つようにしています。

――これまでビジネスを続けてきた中で、これだけは愚直に続けてきたというものはありますか。

石渡正しいと思えることは何事も愚直にやらなければならないと思っています。特に結果がなかなか出ないものこそ、愚直にずっとやり続けています。その一つが「人財教育」です。社員の成長は一朝一夕に成し遂げられるものではありません。ですから、10年単位で取り組んでいます。社長はせっかちな人が多く、私もその一人ですが、社員の成長だけは皆がびっくりするくらい気長に見ています。私が社長になってから、新卒採用で組織を構成していく体制にしたんですが、一回教えてわかる社員なんてほとんどいません。その一方で、間違ったことは教えたくない。だから、私自身は誰よりも学ぶ姿勢でいなければと心掛けています。

――では、愚直以外の要因で、成功したきっかけはありますか。

石渡その一つはメディアに取り上げていただいたことでしょうか。2000年代初頭に、あるニュース番組で私の特集を組んでいただきました。それが起爆剤となり、売り上げにも貢献し、今日までやってこれた一つになったと思います。今もいろんなところから講演などの依頼をいただきますが、これもすべて口コミで広がったものです。本当にありがたいと思います。

この会社に勤めて良かった
社員がそう思える会社にしたい

――EOY(EYアントレプレナー・オブ・ザ・イヤー)をはじめとした起業家賞の意義について、どうお考えですか。

石渡そもそも社長は社内では褒めてもらえる立場ではないので、外部から評価を受けるのは非常にうれしいことだと思います。これから先のことはわからないけれど、これまでのことが及第点だったと自分で思えることはうれしい。しかも、そうした賞が社員にとっても、誇りになってくれたらいいなと思いますね。わが社の社長はこんな評価を受けている人だ。そうして、自分の会社に対する誇りにつながっていったらいいと思います。

――社会におけるオーナー企業の役割、意義とは何でしょうか。

石渡社会貢献をする役割を担っていると思っています。たとえば音楽やアートなどは、資金を援助してくれるパトロンがいなければ、大成しないといわれています。音楽やアートは文化をつくり出すものです。後世に文化をつなげていくためにも、できる範囲で応援をさせていただくことは、経営者としての一つの役割だと思います。

――将来、どのような会社にしていきたいですか。

石渡「この会社に勤めて良かった」と社員が思えるような会社にしたいですね。もっと言えば、その子供たちが「パパやママがホッピーの社員で良かった」と思えるような会社にしたい。それでその子供たちがホッピーに入ってくれたら最高ですね。

文:國貞文隆
写真:今祥雄
取材:2018年9月27日

石渡美奈(いしわたり・みな)
ホッピービバレッジ 代表取締役社長

1968年東京生まれ。立教大学文学部卒業後、日清製粉(現・日清製粉グループ本社)に入社。人事部に所属し、93年に退社。その後、広告代理店のアルバイトを経て、97年に、祖父が創業したホッピービバレッジに入社。広報宣伝、副社長を経て、2010年に3代目社長に就任した。