「あそび」を追求することで子どもたちの未来を変える | 愚直に続けたから 成功した、ワケじゃない

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「あそび」を追求することで<br />子どもたちの未来を変える

「あそび」を追求することで
子どもたちの未来を変える

ボーネルンド中西弘子

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ボーネルンド
社長

中西弘子

「あそび」を追求することで
子どもたちの未来を変える

世界の知育玩具や大型遊具の販売・あそび環境づくりを手掛けるボーネルンド代表取締役社長の中西弘子氏が、夫とともに事業を開始したのは、今から約40年前。以来、「あそびから未来を変える」というビジョンを基に、現在、あそび道具の販売店「ボーネルンドショップ」、親子の室内あそび場「KID-O-KID(キドキド)」などの運営のほか、幼稚園や保育園、自治体などのあそび環境づくりを行っている。子ども向けブランドとして名高い「ボーネルンド」はいかに生まれ、どのように成長してきたのか。成功の秘訣、アントレプレナーとしての生き方について、中西氏に聞いた。

夫が突然会社を辞めてきた
専業主婦から会社経営者へ

――「あそび環境」を子どもたちに提供するボーネルンドは、どのような形で設立されたのでしょうか。

中西ボーネルンドグループは、今から約40年前に事業をスタートさせました。創業以前、私は専業主婦、主人は商社に勤めていました。それがある日、主人が会社を突然辞めてきたんです。まさに寝耳に水でした。主人が36歳、私が31歳の時でした。主人はヨーロッパの玩具ブランドを日本に浸透させ、全国展開を果たしたモーレツ商社マンでしたが、ある日、「役員と意見が合わない」と言って商社を飛び出すように辞めてきたんです。

 子どもも2人いましたから、もうびっくりですよ。「あそび」を通して子どもの成長を応援したいという考えはすでにありましたが、具体的なことは決まっていない。すぐに1年ほどヨーロッパへ情報収集に行ってしまいます。日本で途方に暮れていると、主人が海外で回った取引先からサンプルが送られてくる。私にはまったくワケがわからないし、おカネが銀行口座から引き落とされていくんです。今振り返れば、主人は仕事のことで頭がいっぱいになるとそればかり。だからこそ、大胆なことができたんでしょうけど(笑)。

――そこから、なぜ中西社長も旦那様と一緒に仕事をするようになったのでしょうか。

中西一言で言えば、家族だからです。私や子どもたちの生活もかかっていますから。一人で勝手にやりなさいというわけにはいきませんでしたし、家族だからこそ、一緒にやるべきだと考えました。

 私の実家はもともと商家でした。幼い頃から、母の様子を見ていると、生活の浮き沈みが激しく、大変そうに見えました。だから、私は安定した生活が送りたいと願ってサラリーマンだった主人と結婚したんです。ところが、結果的には、経営に深くかかわるようになっていました(笑)。

 ただ、主人がやろうとしていることに当初から共感はしていました。当時、日本では子どもという存在もあそびもその地位は低く、「子どもたちの玩具はキャラクターさえ付いていればいい」「売れるものが良い商品」とされた時代でした。一方、ヨーロッパでは子どもたちの発育に合わせた教育的な玩具が当たり前でした。そこには、子どもやあそびに対する考え方の大きな違いがありました。そこでヨーロッパ流の考え方が詰まった、子どもの成長と発達に役立つようにとつくられた教育玩具を輸入し親子に貢献することで、結果的にそれをビジネスにできないかと考えました。

――それほど影響を受けたヨーロッパ流の考え方とは、どのようなものでしょうか。

中西子どもは社会全体の財産であり、その子どもの健やかな成長に最も大切なことのひとつが「あそび」であるという考え方です。

 たとえば、デンマークですと人口約570万人という非常に小さな福祉国家です。国にとって子どもがいちばんの財産だと考えられていました。その子どもたちが成長して、心身ともに自立した大人となって国を支えていく。つまり、子どもたちをしっかり育てなければ、国が成り立たないということです。また、子どもを健やかに育てるためには、食べることや眠ることと同様に遊ぶことが大切であると考えられていました。当たり前のことのように思えますが、そうした考えは当時の日本にはなく、私たちは非常に感銘を受けました。日本の子どもたちも遊びながら多様な実体験をし、自立した大人へと成長してほしい。そう思って、ボーネルンドグループを創業することにしたんです。

ブティックのような店構えで
玩具を宝物のように

――事業は最初からうまく行ったんでしょうか。

中西当初は、デンマークのコンパン遊具という、世界で初めて子どもの発達を研究してつくられた大型遊具を輸入して販売するビジネスからスタートすることになりました。そこで、コンパンプレイスケープという株式会社を設立し、幼稚園や保育園などに少しずつ納入していきました。

 ただ、これからビジネスを継続するうえで、商品が大型遊具1ブランドでは提案できるあそび環境が限定的になると考えていましたし、ちょうどその頃、少しずつ輸入販売していたヨーロッパの玩具会社の取引先も、10社ほどに増えてきていました。そこで、コンパンプレイスケープは主に公共的な会社として成長させ、教育玩具を販売するボーネルンドは一般のご家庭向けの会社にしようということになったんです。1981年のことです。当初は主人が両方の代表を務めていたんですが、体調を崩して、副社長をしていた私が社長に就くことになりました。

――成長のきっかけは何だったのでしょうか。

中西ボーネルンドが販売する商品は、「知育玩具」です。この「知育玩具」というネーミングは、もともと私たちが最初につくった言葉です。ただ当時、百貨店のおもちゃ売場では、知育玩具は隅のほうに追いやられているような状況でした。パッケージはアルファベットで書いてあるし、使い方もよくわからない。子どもは直感的に楽しく遊べるんですが、大人にとっては、説明が必要な面倒くさいものに見えてしまったようで、売れないものだと位置づけられるようになってしまいました。それが3~5年ほど続き、卸売りは大失敗しました。

――そこから方針転換を図り、86年に直営店を出すことになるんですね。

中西はい、直営店が成長のきっかけでした。あそびの大切さや、子どもの成長にとっての知育玩具の価値は、きちんと説明すれば伝わるものです。何よりも子どもたちがのめり込むように夢中で遊び、大好きになってくれる。ならば、と直営で店を出すことにしました。

 しかし、この時代はお店を出すのに、ものすごい保証金がかかりました。たとえば、最初に3000万円ほどの保証金を積んで、内装もすべて自分たちでやる。1店舗出すのに1億円の資金が必要だったんです。それでも意を決して最初の1店舗を大阪の心斎橋にオープンしました。86年のことです。そこには一般の保護者の皆さまはもちろん、幼稚園の園長先生からお医者様など幅広い方々がたくさん訪れてくれました。そうした方々に共感していただいた結果、次第に口コミで広がっていきました。

――お店の特徴はどういったものだったのでしょうか。

中西子どもにとって、おもちゃは宝物です。ならば、おもちゃを宝物のように扱うお店にしなければならない。そこであそび道具の価値をきちんと伝えられるブティックのようなお店づくりを目指したんです。お店で仕事をしていただくスタッフも、ただの販売員としてではなく、しっかり教育を施して、インストラクターとしてきちんとあそびの大切さやあそび道具の良さを伝えられるようにしました。

 おもちゃを求めるお客様の要望にいかに応えていくのか。その姿勢が功を奏したんです。そうして、1号店で実績をつくって、東京の原宿に2号店を構えるようになってから、次第に百貨店さんからも声が掛かるようになってきた。そこから少しずつ芽が出るようになったんです。知育玩具の店は日本にはなくても、ヨーロッパから学んだヒントはあった。それらを参考にしながら、自分たちの哲学を形にしていけば、絶対大丈夫。そんな自信はずっと持っていました。

――店舗が拡大するにつれ、自社開発の企画商品も出されていますね。

中西輸入玩具の質は非常にすばらしいんですが、価格も高い。できるだけ多くの子どもたちに使ってもらって、成長を応援するためには、多くの人が求めやすい価格にしなければならない。また、世界中を探しても私たちの理想とするクオリティのものが見つからないこともありました。そこで自社でつくり始めました。たとえば、楽器のシロフォン(木琴)を例に挙げます。子どもが初めて使うものですから、いい加減なものはつくれません。きちんと調律された、美しい音色のシロフォンのほうが感性が豊かに育つでしょう。そこで、国内で手づくりすることにしました。ある雑誌で私たちがつくったシロフォンと楽器専門メーカーがつくったものを比べて、当社のもののほうが良いと評価されたこともありました。それくらい本物であることにこだわっています。今では私たちの店舗も82店になり、各メーカーとの交渉力を得たことで、日本流に商品を開発してもらったり、価格も抑えたりできるようになりました。

2002年に世界最大の
室内型あそび場をオープン

――他方、大型遊具のほうはどのように展開しているのでしょうか。

中西90年代以降、各国で子どもたちの運動不足が、コミュニケーション力や学力にも影響すると言われ、世界的な問題として取り上げられるようになりました。ところが、日本では学力ばかりが重視され、運動不足のほうは、誰にも注目されていませんでした。体力低下は見過ごされていたのです。でも、子どもの頭と体は密接に関連していて、バランスをとりながら成長するもの。体が育たないと、心も頭も育たないのです。

 とは言っても、強制して運動させるようでは、子どもたちの能力は開花しません。楽しく自発的に体を動かすことが重要なんです。そこで2002年に北九州市とコラボして2000坪の「あそびのせかい」をオープンしました。世界最大の室内型あそび場として、2年弱で65万人の方に来場いただきました(当初から2年という期間限定の契約)。それが多くのメディアに取り上げられ、そこから多くのお声掛けをいただきました。その結果、04年に横浜みなとみらいにボーネルンドショップと室内あそび場「キドキド」からなる「ボーネルンドあそびのせかい」を、自社の施設としてオープンすることになったんです。

 世界のどこにもない業態でしたが、これからの日本の子どもたちのために必要な施設だと確信していました。子どものあそび不足に対する解決策として、モノの販売から時間を販売するビジネスへと一歩踏み出したのです。このキドキドは、今では全国21カ所、年間280万人の親子が遊び育つ施設になりました。子育てに欠かすことのできないインフラと評されるまでになっています。

 「キドキド」を基本フォーマットに、自然体験ができる屋外あそび場を組み合わせた「プレイヴィル」、孤独な子育てに悩む親と赤ちゃんのためのスペース「トット・ガーデン」という、新たなあそびの環境も提案しています。

――ボーネルンドの社員は8割が女性だということですが、その狙いはどのようなものでしょうか。

中西第三者から見れば、私たちのビジネスがカラフルで楽しそうに映るようで、この会社を志望するのは、圧倒的に女性が多いです。しかも優秀な方が多い。その結果として、女性が8割になったという言い方が正しいです。特に女性を増やそうと思ってはいませんでしたが、創業時の40年前を思い返しても、ヨーロッパでは女性の社長やマネジャーも多かった。以前からヨーロッパで働く女性を見てきたので、私も自然と受け入れています。ただ、私は女性を面接する際に必ず次のように申し上げることにしています。

 「腰掛けのつもりの方はいりません。仕事をするためにこの会社に来てください。もし子どもを授かって産休に入ったとしても、しっかり仕事をしていたら、またすぐに戻って仕事ができる。それがあなたのためにもこの会社のためにも必要なんです」

 そう言っているせいか、産休後もほとんどの社員が辞めません。また、男女関係なく、海外で勉強させるようにしています。毎年30人ほどの社員を海外に出しています。個人でスキルを磨いたり、社員が自分のビジネスアイデアを実現できたり、そんな自律的な風土をもっと広げていきたいと思っています。

――創業以来、成長を続けて来られましたが、社長がこれまで愚直に続けてきたと思えることは何でしょうか。

中西子どもの健やかな成長に「あそび」を通して役に立ちたい。そんな理念を創業以来、ずっと持ち続けてきました。40年間、それはブレることはありませんでした。どんなときも、その理念を基に乗り越えてきた。今、私たちはこの理念の基、「あそびから未来を変える」というスローガンを掲げています。あそびとは、子どもの「やってみたい」という動機から始まる能動的な営みであり、自分の五感を使って行う“実体験”です。近年、あそびそのものが受動的なものになる傾向がありますが、あそびの中身を能動的なものに変えていきたい。それによって、豊かなあそびを取り戻し、子どもを心身ともに自立した人に育て、社会全体を健やかなものに変えていきたい。そういった意志が込められています。

アントレプレナーは
自分の考えを社会に提案する存在

――では、愚直以外で成功したきっかけとは何でしょうか。

中西今、北海道から鹿児島まで82店舗ありますが、そこはただ商品を売る場ではなく、共感を広げていく場という意味合いもあります。インストラクターがいて、お客様と対話しながら私たちの考え方を広くお客様に伝える。子どもたちに遊んでもらって、あそび道具にのめり込む様子を見てもらえれば、それが良い玩具だと親御さんは理解してくれるはず。そうした地道なコミュニケーション活動が功を奏した。カウンセリング販売のさきがけのようなことをしていたことが結果として良かったのでしょう。

――EY アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー(以下、EOY)や、その他のアントレプレナーの賞については、どんな意義があるとお考えですか。また、アントレプレナーの社会的意義についてはどうお考えでしょうか。

中西起業したあとは、うまくいくことばかりではありません。そんな時に、「起業家賞」はビジネスを継続していく時に、勇気とエネルギーを与えてくれると思います。私もかつてシャンパンの会社からビジネスウーマン・オブ・ザ・イヤーを受賞したことがあります。「社会に対して、自分たちはどう貢献できるのか」「子どもたちのためにどのように社会を変えるのか」。そんなことを真面目に考えてきたことが、もしかしたら評価されたのかもしれません。

 起業家は自分の考えを社会に説明したり、提案したりする存在です。それにはきちんと責任を持って、自分たちの仕事を進めていかなければなりません。特に私たちは、子どもたちのために仕事をしています。だからこそ、自分たちできちんとした手法を考えながら前に進まなければならないと、いつも思っています。

――今後、どのような会社にしていきたいとお考えでしょうか。

中西子どもやあそびについて、もし困ったことがあったら、ここに来れば解決できる。そう言われるような企業になりたいですね。また、豊かなあそび場が社会インフラとしてもっと認められるようにしたい、あそびを通して社会課題を解決していきたいとも考えています。今、「あそびのせかい」のようなあそび場づくりについて全国からご依頼があるんですが、「人口減を何とかしたいから親子のための施設をつくりたい」という話が多いんです。良い施設をつくれば、子どもたちも、子どもを取り巻く大人たちも集まってきて、地域の活性化につながります。その意味で、親子で遊べる場をもっともっとつくりたいと思っています。

文:國貞文隆
写真:今祥雄
取材:2018年8月8日

中西弘子(なかにし・ひろこ)
ボーネルンド社長

1945年大阪府生まれ。66年帝塚山短期大学卒業後、結婚、出産を経て、79年コンパンプレイスケープ、81年にボーネルンドの設立にかかわる。94年社長に就任。良質な世界の「あそび道具」を提案する全国82店舗の直営店や、全国で親子の屋内あそび場「キドキド」を展開。幼稚園や保育園、公園などであそび環境づくりも手掛け、その実績は40年で3万5000カ所にのぼる。グループ売上高77億円(2017年度実績)、従業員数756名(8月9日現在)、18年度も増収増益を見込む。