愚直に続けたから 成功した、ワケじゃない

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トリドールホールディングス
社長

粟田貴也

計画性より、機動力
過去の成功より、今

「丸亀製麺」をはじめ、多くの業態を有する外食産業大手のトリドールホールディングス。創業者の粟田貴也社長は、学生時代のアルバイトをきっかけに、飲食業で独立開業。1985年、焼鳥居酒屋「トリドール三番館」を開業した。そして2000年、セルフ式のさぬきうどん店「丸亀製麺」をオープン。以降「丸亀製麺」を中心に急成長を遂げてきた。その飛躍のきっかけとは何か。そして、アントレプレナーに付きものの愚直さ以外に必要なものとは何かについて聞いた。

夢見た独立開業も
2日目から地獄が始まった

――1985年、23歳で焼鳥居酒屋「トリドール三番館」を開業し、飲食店経営を始められます。創業のきっかけとは何でしょうか。

粟田もともと飲食店が好きで、飲食業をやってみたいという思いがありました。学生時代に喫茶店でアルバイトを始め、人と接して、料理をつくって、評価をいただけるのが楽しく、やりがいを強く感じました。将来は飲食業で独立開業する。そこに夢を見いだしたんです。

 そこで当時、いちばん稼げる仕事だった宅配便のドライバーをして、その資金を元手に開業しました。でも、まったくうまくいきません。

――どれぐらいで苦境に陥ったのですか。

粟田2日目からです。店をオープンした当日は夢が叶ったと幸せな気分に浸りましたが、2日目からお客様が来なくなって、地獄を見ました。「何でこんなことを始めてしまったのか」と後悔するぐらいです。だからと言って、何をしていいのかまったくわからないわけです。人なんて雇えませんから、調理から接客まですべて一人でやっていました。撤退しても借金が残るだけなので、撤退できない。だから、事業を継続するしかない。本当にすがるような思いで、神様がいたら祈りたい、そんな気持ちでやっていました。

 ただ、幸運だったのは、今ほど過度な競争がなかったことです。いわゆる外食産業というものが成長市場でしたし、深夜営業をしている店も少なかったこともラッキーでした。私にとっては深夜になってからが実質的な開店時間で、若さに任せて朝まで営業して、どうにか食いつないでいました。ただ、深夜のお客様は2軒目3軒目ですから、あまり単価は高くない。それでも来てくれるだけでありがたかったですね。

――現在の主力事業である「丸亀製麺」をオープンされたきっかけは何でしょうか。

粟田2000年に「丸亀製麺」をオープンした当時は、さぬきうどんブームでした。それまで試行錯誤を繰り返しながら、焼鳥店を多店舗展開してきましたが、さぬきうどん店のような長蛇の行列をつくったことはありませんでした。ブームの最中、ふと行列を見ながら、「もしかしたら、私はお客様が興味のないことばかりやっていたのではないか」と思わされたんです。さぬきうどん店は「できたてを食べる」という、お客様が興味あるものにフォーカスしている。そこに繁盛の極意を見いだした気がしたんです。「一度これを自分でやってみたい」。そう思って「丸亀製麺」を始めました。

――最初から「丸亀製麺」の多店舗展開を考えていたんですか。

粟田いえ、当時は焼鳥店で上場計画をつくっていましたから。私が上場を決意したのは90年代後半。2000年から準備を始め、04年の上場を目指していました。「丸亀製麺」は00年のオープンですから、ちょっとの浮気のつもりでした(笑)。でも、今後焼鳥店を出店していくにも、さぬきうどんで繁盛の極意を体得する必要があるんじゃないか。そんな思いがありました。

――それが結果的に、大きな成功を収めています。

粟田当たりましたね。「人は何を求めて店に来ているのか」を学んだ瞬間でもありました。それまでは、結局自分がしたいことだけをしてきていたんです。お客様が何を求めているのかを考えていたつもりで、考えていなかった。「丸亀製麺」でまさに開眼した思いがありました。

 そうして03年ごろから「丸亀製麺」にシフトし始めました。今考えれば、そもそもうどん・そばの世界にはガリバー企業はなく、「できたての製麺所のうどん」という新規性によって新しい市場ができたということだったと思います。

計画性より
俊敏な機動力が大切

――成功されたのは、何が要因だとお考えでしょうか。

粟田明確な青写真を持ってやってきたというよりは、そのときどきに自分が考えたことをすぐに行動に移したということでしょうか。私は、経営においては、計画性より俊敏な機動力のほうが大切だと考えています。機を逃さずどんどん取り込んでいく。

 結局は、PDCAをどれだけ早く回すかということだと思います。大事なことは、過去の成功よりも、目の前で起こっていることであって、うまくいったらすぐにそれを取り込んで次につなげていくことです。緻密な計画を練って、用意周到にやっていくことも一つの方法ですが、私の場合は、今自分がやっている中でいちばん成功しているものを次に生かす。その繰り返しなんです。つねに変化していくのがわが社の常態であり、ピンと来たらすぐに取り込む。

 ただ、タイミングや運もあります。03年に「丸亀製麺」を多店舗展開し始めたときは、資金もそれほどありませんでした。「これではダメだ」と思ったときの救世主が、フードコートでした。当時は大型ショッピングモールが全国にでき始めた頃です。安かろう早かろうという印象が強かったフードコートに本格的なうどんを提供したことで人気が広がりました。当初は「本格的な製麺機を入れたい」という話をしたら、「フードコートに?」と、けげんな顔をされましたけどね(笑)。でも、面白がってくれる方々もいた。ありがたかったですね。

 それをきっかけに他の地域でも出店のお声掛けをいただけるようになったんです。そこからラーメンやパスタにも業態を拡げ、成長の角度を上げることができた。その結果、予定より少し遅れましたが、2006年に上場することができたんです。

――近年では飲食チェーン店などの買収も進めていらっしゃいますね。

粟田確かに企業買収ではありますが、「買収」という言葉のイメージは全然なくて、皆さんで一緒にやっていこうというスタイルです。たとえば、成長途上にある飲食店の経営者は商品開発から、出店、採用、教育まですべて一人でやらなければなりません。そこには大きな労力がかかります。でも、こちらには店舗管理や出店ノウハウがすでにある。そこを任せてもらえれば、もっとスピードが上がるし、成長の角度も変わっていきます。

 そもそも、飲食店を始めたばかりの経営者は、みんなものすごい大変なんですよ。これまで私も馬車馬のように働いてきましたが、店を出すごとに銀行からおカネを借りて、ずーっと借金におびえてきたんです。「店がこけたら、俺は終わりやな」といつも覚悟していました。そんな不安がつねにありました。さっき上場の話をしましたけど、上場のタイミングで個人債務が外れるわけですよ。これでね、なんて言うか、ホッとしました。もちろん、そのために上場したわけじゃないですが、それだけ借金という不安は重いんです。

 そういう経験をしてきてますから、若い経営者には店や料理に専念できる環境をつくってあげたいんです。いちばん得意な部分に集中していただくための企業提携です。

自分が気付いたら
次の瞬間に行動を変える

――それは、今後ブランド店舗を融合させてグループとして大きくなっていくという狙いがあるのでしょうか。

粟田人間は万能ではありませんから、一人の人間が考える業態やブランドにはどうしても偏りが出ます。一人の人間が複数の価値観を持つことは極めて難しい。自分もそうです。必ず事業の優先順位をつけてしまうんです。そうすると一番と二番の事業の差は大きくなるばかりです。でも、みんなが優先順位一番の事業を持ってくれたら、成長していく。要はどれだけ社長をつくれるかなんです。

 わが社がホールディングスの企業形態である理由は、事業部が成長すれば分社化していくという狙いがあるからです。私が全部の事業を見るよりは、みんなで一緒に走ったほうが早く成長できるんです。

――粟田社長がアントレプレナーとしてこれまで愚直に続けられてきたことは何でしょうか。

粟田飽くなき成長です。「今日より明日だ」とずっと考えてきた。それは今も変わりません。「これで終われない、まだまだ成長したい」ということは、最初の店を始めたときからつねに考えています。隣の店には負けたくない、という延長線で今までやってきました。自分のステージが上がるたびに、同規模の店をライバルに見据えていました。一歩上の人をずっと追いかけてきたと言ってもいいかもしれません。

――では、愚直以外で成功したきっかけとなったものは何でしょうか。

粟田行動を変えることです。執念と変化。そのバランスが大事だと思っています。変化をいとわず、どんどん変わっていく。変化に対する柔軟性が必要です。一つのことをやり続けるという考え方からすれば、異質に思えるかもしれませんが、自分が気付いたら、その瞬間に行動を変える。私の中ではつねにPDCAが回っているんです。

 今、世の中では至る所でゲームチェンジが起きています。戦う相手もどんどん変わっていく。知らず知らずのうちにリングに立たされていることもある。今軽視している企業が将来の大きなライバルになるかもしれない。今後のライバルはもしかすると今は外食の形を取っていない企業かもしれない。だからこそ、つねに行動を変えていかなければならないんです。

将来、自分がどんな場所で
仕事をしているのか楽しみ

――2012年にEYアントレプレナー・オブ・ザ・イヤー(以下、EOY)に参加されています。

粟田EOYに参加したことで、自分の起業家としての再定義ができたと思っています。起業家とは何か。その一つがナンバーワンよりもオンリーワンでなければならないことです。自分たちが成長していくためには徹底した差別化が根底になければダメです。みんなと同じことをやっていては成長できません。

 世の中は人気があるほうに流されるものです。そんなとき、いかに方向転換の舵を切ることができるのか。そのためには絶対的な強み、つまり差別化が必要なんです。丸亀製麺は「できたて手作り」を特徴にしているため、非効率で属人的な業態です。

 実は画一性と効率性を求めるチェーン展開には不向きな特徴なんです。でも、そこにわれわれの強みがある。非効率に真っ向から勝負するのがわれわれの心意気なんです。他社がやりたがらないことをやる。それが攻めでもあり、最大の防御にもなりますから。

――粟田社長が考えるアントレプレナーの理想像とは何でしょうか。社会に対してどうありたいと考えていらっしゃいますか。

粟田結果として、自分がやってきたことによって事業や世の中の見方が変わっていけば、うれしいと思っています。私が自分のためにやったことが、結果として全体を最適化する。私は日本の外食産業を世界で通用するものにしたい。そのためには誰かが突破口を開けなければならないんです。だから、失敗してもあきらめない。海外での売上高を伸ばしていくことが私の現在の重要な目標となっています。

――アントレプレナーとして注目されている方はいますか。

粟田直接お会いしたことはありませんが、ストライプインターナショナルの石川康晴社長とジンズの田中仁社長です。彼らはアパレルとメガネの会社ですが、自分たちをその枠でとらえていないように思います。ゲームチェンジが起こる中で、これからのライフスタイルを大きく変えていく存在になるかもしれません。

 私自身も飲食だけにこだわっているわけではありません。その意味でもEOYは、私に考えるきっかけを与えてくれたと思っています。表彰されて初めて考えを変えることができた。やるべきことをやれば、人はきちんと評価してくれる。それが自分の自信につながったと思っています。

――将来、どんな経営者になっていたいですか。

粟田海外の外食企業と互角に戦えるような会社にしたいですね。でも、われわれは将来、食だけを扱っている会社ではなくなっているかもしれません。これから5年先、10年先、どうなるかわかりません。将来自分がどんな場所で仕事をしているのか自分でも楽しみにしています。

文:國貞文隆
写真:今祥雄
取材:2018年2月27日

粟田貴也(あわた・たかや)
トリドールホールディングス社長

1961年兵庫県神戸市生まれ。神戸市立外国語大学中退。学生時代のアルバイト経験を通じ飲食業の魅力に目覚める。85年焼鳥居酒屋「トリドール三番館」を創業。2000年に現在の主力店舗である「丸亀製麺」を立ち上げ、06年に東証マザーズ市場に上場、08年に東証一部に上場する。