大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、秀長の家臣で「築城の名人」と称された藤堂高虎にスポットライトがあたることになったが、秀長を支えた有能な人材は高虎以外にもいた。
天正13(1585)年に四国征伐の功績などによって、兄・秀吉から大和国を与えられた秀長。それ以後の文書に、秀長の家臣として頻繁に名を表すのが、横浜一庵(よこはま いちあん)である。
一庵は秀長の「三家老」の一人で筆頭家老として、家臣団を支えた。 40歳足らずで出家してからは「一庵法印」「一晏法印」、さらに「大蔵卿法印(おおくらきょうほういん)」とも名乗った。
大和で5万石が与えられた秀長の側近
出自についてはよくわかっていないが、『戦国人名辞典』での記載から、天文19(1550)年に生まれたようだ。
『多聞院日記』によると、父親の名前は「四郎三郎」でケンカが原因で亡くなったらしい。そんな血気盛んな父を反面教師にしたのかもしれない。一庵は天正15(1587)年の島津征伐においても従軍することなく、郡山城の留守を預かりながら、軍勢の出陣体制を整備した。
自身も補佐役タイプだった秀長は、後方支援の重要性をよくわかっていたのだろう。一庵には大和国内で5万石と、秀長の家臣中で最も高禄が与えられていた。


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