羽田正親(はた[はねだ] まさちか)は、横浜一庵と同じく「三家老」の一角として秀長を支えた家臣。
近江国上羽田村の出身で、天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いでは桑山重晴(後述)と共に賤ヶ岳砦を死守した。
天正13(1585)年の紀州征伐後、秀長が和歌山城の築城を開始すると、藤堂高虎・横浜一庵らと普請奉行を務めた。秀長が大和国を加増されたことで、大和国添下郡に4万8000石を与えられ、従五位下・長門守に叙任される。
資材調達においても重要な役割を果たしたようだ。天正16(1588)年3月、秀吉は方広寺大仏殿造立のために熊野の木材を送るよう命じる朱印状を、藤堂高虎と羽田正親宛てに送っており、頼りにされていたことがわかる。横浜一庵などと共に秀長の分国経営に参画し、秀長の死後は秀保に仕えた。
文禄4(1595)年4月に秀保が没すると、正親は豊臣秀次に仕えることとなるが、同年の秀次事件に連座し、越前国に追放される。最期は豊臣家の事業に貢献していたにもかかわらず、理不尽にも自害に追い込まれた。
生涯現役で戦場に出続けたベテラン家臣
そして、個性豊かな秀長家臣団の中でも異彩を放つのが、桑山重晴(くわやま しげはる)だ。
大永4(1524)年に尾張国で生まれた重晴は、丹羽長秀や秀吉に仕えた後、秀長の家臣となったが、その頃にはすでに50代を迎えていた。
高齢の身でありながら、秀長が但馬国を統一して竹田城から出石城(いずしじょう)に移った時には、代わりに竹田城主となるなど順調に出世を重ねた。 天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いでは、 前述したように 、羽田正親とともに賤ヶ岳砦を守り抜く戦功を挙げている。
秀長が大和国に入ると、紀伊国和歌山城代を務めて、所領は3万石となった。


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