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キャリア・教育 #秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像

藤堂高虎だけではない!秀長を支え続けて"家臣団トップの給与"が与えられた、超有能な「最強の側近」

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豊臣兄弟! 豊臣秀長
郡山城(写真: オフィスK / PIXTA)
  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)
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天正13(1585)年における和歌山城の普請奉行、春日大社の石垣補修などの普請奉行、そして高野山の嘆願取次なども行っている。また、大和国は強大な寺社勢力が根付いており、秀長も統治には苦労したが、一庵は興福寺との取次役も務めて、秀長と寺社勢力の橋渡し役を担っている。

秀長の死後は養子の秀保のもとで家老として仕えた。秀保も若くして亡くなると、秀吉の直参になるが、文禄5(1596)年、推定マグニチュード7.5前後とされる直下型地震に襲われる。

のちに「慶長伏見地震」と呼ばれる大地震だ。この地震をきっかけに『慶長』と改元されたことが、その名の由来である。この地震によって、震源地に近い伏見城は天守をはじめ各所が倒壊。城内だけで600人が亡くなったと伝わっており、一庵も不慮の死を遂げている。

豊臣兄弟が頼りにした「行政マン」

行政実務において秀長の右腕を務めたのが、小堀正次(こぼり まさつぐ)である。

天文9(1540)年に近江国坂田郡小堀村に生まれた。浅井長政に仕えていたが、浅井家の滅亡後は織田陣営である秀長に仕官。知行1000石が与えられた。

行政能力が秀吉や秀長に買われて、天正13(1585)年からは主に紀伊国や大和国の検地代官を務めて、寺社勢力との難しい交渉を見事にやり切っている。その功績から5000石が与えられ、秀長の家老に抜擢された。

秀長と後継の秀保が没すると、藤堂高虎らとともに、廃絶阻止に動くが叶わなかった。その後は秀吉に仕え、太閤検地を担っている。

秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは徳川方である東軍に味方して、会津征伐に従軍。戦後は、徳川方の領地が置かれた備中の管理を任され、備中松山で1万4000石の領地も得た。ここでも行政官としての手腕を買われ、活躍し続けたのである。

正次の子・政一も秀長に仕えて行動を共にしており、政一は江戸時代を代表する大茶人「小堀遠州(こぼり えんしゅう)」として大成することになる。

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