天正15(1587)年3月、豊臣秀吉は総勢20万とも言われる大軍を率いて九州へ侵攻。島津氏を降伏させて九州平定(九州征伐)を成し遂げた(前回記事参照)。
同年6月、秀吉は筑前国の箱崎に腰を据えて、博多の復興(太閤町割り)を進めながら、戦功のあった大名たちに土地を割り振る国分けに取りかかっている。
だが、論功行賞の場であるはずの箱崎で、秀吉は宣教師を日本から追い出す命令を出す。世にいう「バテレン追放令」である。
当初はキリシタンに寛容だった秀吉
周囲もさぞ驚いたことだろう。なにしろ、それまでの秀吉は、キリシタンに寛容だった信長のスタンスを引き継いでいた。前年の春には大坂城でイエズス会の準管区長コエリョと会い、布教を認める文書さえ与えている。
風向きを変えたのは、何だったのか。諸説あるが、その一つが長崎での動きである。
天正8(1580)年、日本初のキリシタン大名・大村純忠が、領内の長崎をイエズス会に寄進。以後、長崎では教会が町の実権を握り、武装化が進んだ。
準管区長コエリョが天正13(1585)年3月3日付でマニラのイエズス会セデーニョに宛て「総督に頼んで、兵員・弾薬・大砲と食料を積んだ船を3、4隻、日本へ送ってもらうように」と求めたとされる書簡も残る。こうした長崎の軍事拠点化を知った秀吉が、キリシタンの勢力拡大を警戒したのも無理はない。
ほかにも、バテレン追放令の背景として、大名による寺社破壊への反発や、ポルトガル商人による日本人の海外売買への怒りを挙げる説もある。理由は一つではなかったのだろう。


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