秀吉は6月19日付で、箱崎において5カ条を発布。その骨子は「日本は神国でありキリシタンの国から邪法が入るのはけしからぬこと」「大名が領民を信者にし、寺社を破壊するのは前代未聞であること」「宣教師は日本に置かず20日以内に帰国せよ」というものだった。
その一方で、南蛮貿易については「南蛮貿易の黒船は、商売のことであるので特別である」と、禁じていない。
天正16(1588)年4月、秀吉は長崎を直轄地とし、鍋島直茂を代官に置いた。代官の役目は年貢の上納と、秀吉の御用品の買い付けである。教会の町は、秀吉が貿易の利益を握る町へと変わった。
高山右近がターゲットにされた理由
追放令の矛先は、宣教師だけではなかった。秀吉は、キリシタンを軸にした大名や武士の結びつきにも、歯止めをかけようとした。なかでも標的にされたのが、高山右近だった。
右近は高槻城主だった頃、︎領内各地に20を超える教会を建て、領民の7割ほどがキリシタンになったと伝わる。山崎の戦いでは秀吉方の先鋒を務め、茶人としても千利休の高弟に数えられた。天正13(1585)年には明石へ移っている。
秀吉は、影響力を持つ右近が棄教すれば、他のキリシタン大名も従うだろうと考えたようだ。
ところが、右近は領地も財産も捨てて信仰を守る道を選ぶ。家臣団から外されて浪人となり、小西行長のもと小豆島にかくまわれたのちに、天正16(1588)年には前田利家に迎えられて金沢へ移った。
「追放令」という名からキリシタンが国を追われたように思われがちだが、秀吉が命じたのは宣教師の退去であり、信者を国外へ出すものではなかった。右近がマニラへ送られるのは、徳川幕府が全国でキリスト教の禁止を進めた慶長19(1614)年、秀吉の死から16年後のことである。
右近は信仰のために、大名の地位を捨てた。そんな右近の導きで洗礼を受け、九州攻めでは軍奉行として秀吉に先んじて九州へ下った男は、どう動いたのか。黒田官兵衛のことである。
官兵衛の信仰は、黒田家自身の文書・記録には出てこない。洗礼を受けて「シメオン」と称したことを伝えるのは、宣教師ルイス・フロイスの書簡である。


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