官兵衛の信仰を裏づけるものもある。十字の周りに「JOSUI」などとローマ字で刻んだ印判や、福岡県朝倉の円清寺に伝わる官兵衛像の賛である。賛には、かつて南蛮の宗門に入ったと記される。受洗は天正11(1583)年とされるが、天正13(1585)年頃とする説もあり、定まらない。
国分けでの官兵衛の扱いは、信仰と無関係ではなかったと、フロイスは『日本史』で書いている。フロイスによると、九州征伐で大きな功績を挙げた官兵衛に、秀吉はいったん豊前を与えると約束していたという。
しかし、官兵衛がキリシタンで、周囲の貴人たちにも受洗を勧めていることを理由に、秀吉は激怒。官兵衛を叱責し、一度は豊前の領地を取り上げた。その後、秀吉は強硬な姿勢を改めて、豊前を与え直したものの、かなりの部分は削っている。官兵衛が最終的に領したのは、中津を居所とする豊前六郡だった。
秀吉は、棄教を迫る相手を右近に絞りながら、官兵衛に対しては与える恩賞を抑えたが、その官兵衛の周りで、信仰は家中へと広がっていく。弟の直之も、その一人である。
秀長の家臣だった黒田直之もキリシタン
九州平定が黒田家を豊前へ導いたとき、その流れの中にもう一人の黒田がいた。官兵衛の弟、直之である。永禄7(1564)年、黒田職隆の4男として姫路に生まれた。
天正5(1577)年から秀吉に仕え、天正11(1583)年の賤ケ岳の戦いに参戦。その後は秀長の元に転属し、大和郡山に住んでいた。
秀長のもとで経験を積んだ直之は天正14(1586)年、兄の官兵衛の出兵に伴い、黒田家に戻る。官兵衛が豊前の大名となると、その家臣として戦場に立った。
朝鮮出兵では侍大将として渡海し武功を挙げ、関ヶ原では兄に従って九州で戦った。戦後、甥の長政が筑前に入ると1万2000石を与えられ、秋月城代となる。慶長14(1609)年2月、静養先の大坂で世を去った。享年46、嫡男の直基が家を継いだ。
兄と同じく、直之も熱心なキリシタンだった。洗礼名はミゲル。関ヶ原のあと浪人となった同じ信徒の武将、明石全登をかくまい、広島城下の教会堂の再建を福島正則に働きかけて許され、自費で建て直したとも伝わる。
直之が世を去ったのは、幕府が直轄地でキリスト教を禁じた慶長17(1612)年の3年前のことだった。


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