豊臣秀吉は大名間の私闘を禁じたことで知られている。「惣無事令」という法令のかたちで施行されたかどうかは意見が分かれているが、停戦を呼びかけたことは確かであり、いちばん初めにその考えを打ち出したのが、「九州国分」においてだった。
天正13(1585)年閏8月、畿内近国を統一した秀吉が、書状で島津に対して服属を求めた。さらに同年10月に秀吉は、交戦中である島津義久と大友宗麟に宛てて、停戦令を発給。これが惣無事の原型だとも考えられている。
このとき大友側はすぐに停戦を受け入れるも、島津側は拒否。鎌田政広を秀吉のもとへ派遣し、「戦は大友に対する防戦である」と弁明させた。
翌年の天正14(1586)年3月には島津からの使者・鎌田に対して、秀吉は「九州の領土はこのように分けろ」と国分案を提示している。
だがこの頃、島津はすでに九州北部の豊前・筑前まで勢力を伸ばしていた。九州の制圧が見えていた島津側はこれを拒否している。
島津と大友の間を取り持つ秀長
このやりとりの際に、島津側と大友側の間に入ったのが、秀長だった。いずれも公式な交渉相手は秀長だったことが、書状から読み取れる。
同年4月には、大坂へと来訪した宗麟に、秀長が対応。豊臣方に援軍を求める宗麟に対して、秀長がその手をとって「何事につけても私が同じ気持ちでいますので、どうかご安心なさってください」と言って、こう続けたとされる。
「内々のことについては宗易〔千利休〕が、表立った公的なことについては私が気を配っております。あなたにとって悪いようなことは決して起こらないでしょう」
そうして秀長は大友側を支援しながらも、島津とも関係を構築し、できるだけ穏便に事を進めようとしていたようだ。


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