それでいて、秀長は毛利とも緊密な関係を築いている。島津・大友、そして九州に強い利権を持つ中国の雄・毛利という、九州情勢をめぐる三大勢力とつながりを持つ秀長が、秀吉による「九州国分」の実現に向けて、交渉役を担っていた。
トップリーダーのビジョンを叶えるため、ナンバー2の役割を果たした秀長。秀吉もまた、秀長をもってしてもまとまらないとなれば、ほかに道はなし、と説得を諦めることができたのだろう。
結局、島津から合意を得られず、事態は「九州征伐」へと展開することになる。
兄弟の軍略が冴えわたる連携プレー
天正14(1586)年7月、秀吉は大友宗麟の子・義統に宛てて九州征伐を宣言し、こんな計画を伝えた。
「先手として長宗我部元親・信親ならびに四国勢が出船し、毛利・吉川・小早川が中国勢の先手として出陣したのちに、中国勢が残らずに出陣。そして、秀長と秀次に備前・播磨・丹波・美作・紀伊・淡路勢をそえて出陣させる」
かなり大規模な出陣を計画していたことがわかるが、実際には、さらに秀吉自身も出陣することになった。同年12月に最初に出陣した長宗我部元親・信親ならびに四国勢が、豊後の戸次川の戦いで敗北したからである。
この九州征伐において軍事作戦の中核を担ったのが、秀長だった。秀長は大和から天正15(1587)年2月10日、約1万5500人という軍中最大の軍勢を率いて出陣。長宗我部ら四国勢と合流し、九州東部を約15万人にも及ぶ大軍で南下していく。
豊前、豊後に侵攻し、日向国の県城(あがたじょう)を落とすと、秀長は高城を二重に囲んで兵糧攻めにした。救援に駆けつける島津軍に備えて、根白坂に砦を築く。島津軍がこの砦に攻めかかるも、豊臣方は守り抜き、大きなダメージを与えることに成功した。
一方の秀吉軍はというと、大坂を出立すると、ゆっくりと山陽道を南下し、九州に上陸。西部の肥後から薩摩へと侵攻していく。
ちょうど島津領の薩摩・大隅を、日向から進む秀長軍と肥後からの秀吉軍で挟み撃ちする格好となった。それだけではない。秀長勢の軍略によって、海路も長宗我部や紀伊・備前・豊後の水軍が護衛していた。


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