陸路で挟み撃ちにされたうえに、水路も押さえられれば、島津軍はどうすることもできない。
島津家当主の島津義久が、秀長を通じて和議を申し立てて秀吉の軍門に下ると、当初は徹底抗戦の構えを見せていた弟の義弘も、秀長らの熱心な説得によって降伏した。義久らの取り扱いについて、秀吉は秀長の家臣・桑山重晴への書状のなかで、こんな指示を出している。
「何様にも中納言殿次第」(すべては秀長の意向次第にせよ)
戦後処理の全権を委ねるこの言葉からは、九州征伐で秀長が見せた働きぶりを、 秀吉がいかに高く評価していたかがわかる。
敗れた島津義久が向かった先
根白坂での大敗を受け、島津軍は限界を迎える。島津家存続のためにまず動いたのは、筆頭家老の伊集院忠棟ら重臣たちだった。彼らが和議の交渉のために駆け込んだ場所、それこそが秀長の陣であった。
「秀長殿ならば、うまくとりはからってくれるのではないか」
これまで幾度となく交渉相手として接してきたなかで、義久は秀長の「人間力」をひしひしと感じ、そんなふうに考えたのかもしれない。
そして5月8日、義久は剃髪して、川内の泰平寺に滞在していた秀吉のもとを訪れて降伏した。「島津一類首を刎ねるべく候」としていた秀吉も、その潔さに気持ちが揺らいだようだ。朱印状には「義久一命を捨て走り入る間、御赦免候」と記し、命乞いする島津を許している。
秀長が秀吉にどう伝えたかはわからないが、義久は助命されたばかりか、島津家は薩摩・大隅の両国と日向の一部を安堵され、九州の一大名として存続することになった。
一方の大友家は、豊後一国が宗麟の子・義統に安堵され、こちらも家名存続を果たす。もっとも、宗麟自身はそれを見届けることなく、九州平定が成った直後の5月23日、隠居先の津久見で病没している。
病床の宗麟は、大坂で秀長に手を取られ、「どうかご安心なさってください」と言われた日のことを思い出していたのではないだろうか。
敵方の義久も、味方の宗麟も、いざというときには秀長を頼りにした。秀長はそんな男だった。
【参考文献】
杉山博編『多聞院日記索引』(角川書店)
河内将芳著『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(戎光祥出版)
柴裕之編『豊臣秀長 シリーズ・織豊大名の研究』(戎光祥出版)
新人物往来社編『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社)
河合敦著『豊臣一族 秀吉・秀長の天下統一を支えた人々』(朝日新書)
真山知幸著『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』



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