それゆえ、貧困層の当事者を名乗るコンテンツが「本当に貧困なのか、それとも貧困設定(パフォーマンス)なのか」というグレーゾーンそのものが、現代のエンタメとして機能することになる。特定のコンテンツを監視し、調査し、その真偽を疑うこと自体が正義の皮をかぶった知的な娯楽となるのである。
発信者側も、視聴者のニーズである「理想の貧困」を演じるためには、結局のところ、アウトプット(見え方)の調整という細やかな演出が必須にならざるをえない。再生数やアフィリエイト、投げ銭(スパチャ)を得るために、たとえ収入が増えても、「貧しく惨めなキャラクター」を演じ続けなければ、ブランドの信頼性が低下してしまうからだ。
プラットフォームのアルゴリズムは、このようなコンテンツの「道徳的価値」を評価できない。評価するのは「滞在時間」「コメント数」「シェア数(拡散性)」という数値だけだ。ネット空間において、これらのインプレッションを最も手っ取り早く爆発させるのは、「怒り」「覗き見趣味」といった低次で強力な感情である。
当事者発信型の貧困ポルノは、この「感情のマイニング(採掘)」において極めて高効率な燃料となる。アルゴリズムは道義的に無知であるがゆえに、「他人の不幸や歪んだ私生活をさらす動画」を、「ユーザーの関心を惹きつける優良コンテンツ」としてどんどんおすすめ欄(レコメンド)に流し込み、増幅させていく。
この地獄のメカニズムの厄介な点は、「どのような結末を迎えても、すべてがインプレッションとしてマネタイズされる」という無敵の永久機関になっていることである。テレビなどのオールドメディアであれば、やらせや嘘が発覚した時点で「番組打ち切り」「失職」という社会的死が待っていた。
だが、プラットフォーム経済においては、「炎上」すらも最大のインプレッション獲得のチャンスになってしまう。悪名も悲惨さも、すべてがアテンション(注意)に変換されてプラットフォーマーと配信者の懐を潤すため、もとから構造的に歯止めが存在していない。
リアリティ番組が養い、貧困系YouTuberへと続く…「排除のゲーム」の感性
安全地帯から「当事者の悲惨」をじっくりと眺め、評価を下し、場合によっては罰する――このような感受性は、一夜にして出現したものではない。社会学者のジグムント・バウマンは、初期の人気リアリティ番組(『ビッグ・ブラザー』)を取り上げ、それが「排除のゲーム」になっていると主張した。
「この世界は、『リアリティTV』が鮮やかに示し、説得力あるかたちで明らかにしているように、要は『誰が、誰を、ごみ捨て場に送るか』をめぐるものである。(略)候補者がはっきりと確認されたら、あなたの本能と直感のおもむくままに自由に選べばいい」と(『液状不安』澤井敦訳、青弓社)。


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