視聴者はリビングで横になって、誰が生き残り、誰が脱落するかを裁定する。この構造は、現代のネットユーザーが「設定と違う」「嘘をついている」と演者を特定・炎上させて破滅させたり、低評価や批判コメントで社会的に抹殺(追放)したりする「私刑ごっこ」の感触と完全に一致している。
リアリティ番組が視聴者に植え付けた最大の暗黙のメッセージは、誰かが排除されても、次のシーズンになればまた新しい「観察対象(犠牲者)」が補充されるという感覚であった。この「人間を使い捨てのコンテンツとして消費し、飽きたら捨てる」という消費の感受性こそが、現在のアルゴリズム経済における「インプ稼ぎ」の地ならしとなったのである。
このように振り返ると、2000年代初頭に世界中で大ヒットしたリアリティ番組は、一時のブームではなく、「他人の生の苦悩や歪みを覗き見し、それを評価・選別して楽しむ」という新しい感性を、大衆レベルで涵養するための巨大な実験装置だったといえる(日本では『テラスハウス』などがその役目を担った面がある)。
また、リアリティ番組の世界では、参加者たちが注目・承認・金銭を得るために自ら進んでカメラの前にプライベートを差し出し、監視されることを熱望する。人々が自らを商品として自発的に市場に露出しようとするのだ。現代の貧困系YouTuberなどが自らカメラで撮影してアップロードする行動の原理は、すでにこの時点で出来上がっていたのである。
貧困ポルノを楽しむ人々が気づいていない「落とし穴」
当事者発信型の貧困ポルノがこれだけ浸透したのは、単に日本社会が貧しくなったこと以上に、「ポルノ」と認識しづらい構造上の問題もある。一般的な性的ポルノや暴力コンテンツの場合、消費する側にも「自分は性欲や露悪的な刺激を消費している」という一定の罪悪感ややましさがある。そのため、公の場で堂々と語ることを控えたり、どこかでブレーキがかかったりする自浄作用が働く。
けれども、貧困ポルノの場合、消費者の胸中にあるのは「同情」「応援」「社会学習」「正義感」という一見道徳的に正しいとされる感情なのである。しかも、これらの感情は、すでに述べたように、自尊心をくすぐり、束の間の安らぎを与えてくれる……。ここに決定的な落とし穴がある。
わたしたちは、自分のものではない他人の「創られた悲惨さ」に時間(関心)を溶かすことによって、自分の人生という真の課題を「素通り」するという欺瞞によって、心底癒やされていることに気づいていないだけなのだ。



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