「小牧・長久手の戦い」が終結すると、秀長は伊勢長島城を訪れた。秀吉の名代、つまり代理として、信雄の上洛交渉にあたるためである。
その後、信雄の家臣にあてて、上洛を促す書状を1月25日に送付。2月26日に上洛が実現し、秀吉の推挙のもと、信雄は権大納言に任じられて、正三位に叙任されることになった。
すでに武家への官位の執奏は、秀吉の思いのままであることを知り、信雄も改めて秀吉の権力の大きさを感じたことだろう。
天下人へ近づく秀吉は紀州侵攻を開始
そして信雄が京をあとにした天正13(1585)年には、秀吉は天皇と対面。信雄が任じられた権大納言よりも高位である内大臣へと昇進を果たしている。
天下人へと一歩一歩近づいていく秀吉は3月21日、小牧・長久手の戦いにおいて徳川家康と結んだ根来衆・雑賀衆を討つため大坂城を出陣。紀州への侵攻を開始している(紀州征伐)。
根来寺の僧兵集団の「根来衆」と、鉄砲を主力とする雑賀庄内の土着集団「雑賀衆(さいかしゅう)」は、紀伊国で勢力を持っていた。かつては織田信長も紀州征伐にとりかかったものの、十分な成果は挙げられなかった。それだけに、ここでかたをつけようと秀吉は決意したのだろう。
秀吉勢は、千石堀城・畠中城・積善寺城・沢城などを攻略。積善寺城や沢城については、落城にあたって秀長が調略を行ったようだ。両城に籠城する者たちに対して、助命を約束している。そして積善寺城に籠城していた根来衆に対しては、次のような条件を示した。


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