天正12(1584)年3月、織田信長の次男である織田信雄と徳川家康の連合軍が、羽柴秀吉と激突した「小牧・長久手の戦い」。序盤は家康方が局地戦を次々と制して、主導権を握っていく。
3月17日の羽黒の戦いで先制した家康方は、その後、小牧山に、秀吉方は楽田に、それぞれ本陣を構えて対峙した。
兵力では信雄・家康方の1万7000ほどに対し、秀吉方は10万ともいわれている。圧倒的な差だが、家康は小牧山に堅固な陣を築いており、秀吉方も迂闊に攻めかかれば大きな痛手を負いかねない。結果、両軍はにらみ合ったまま、身動きの取れない膠着状態に陥ることになる。
池田恒興の助言が家康に漏れる
秀吉方の池田恒興は、この局面を打開すべく、家康の本拠・三河を直接叩く「中入り」策を進言する。秀吉はこれを採用して4月6日、甥の羽柴秀次を総大将に、池田恒興・森長可・堀秀政らからなる2万余りの別働隊を三河へと向かわせた。目的は、家康が小牧山を離れた隙を突いて岡崎を急襲することだった。
だが、この動きは事前に家康方へ漏れる。家康は自ら1万余りの兵を率いて後を追い、4月9日、長久手で別働隊に襲いかかった。不意を打たれた秀次隊は総崩れとなり、池田恒興・池田元助父子、森長可ら秀吉方の主だった武将が次々と討ち死にする。
別働隊が三河へ向かっているという一報を得るや、家康は間髪を入れず本隊を率いて後を追い、敵が体制を整える間も与えずに叩いた。この判断の速さと的確さこそ、家康の真骨頂だろう。長久手の戦いは家康方の勝利に終わった。


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