こうして局地戦では家康方が優位に立ったものの、秀吉もこの程度で退くような相手ではなかった。判断の速さで家康が勝るなら、秀吉の武器は、勝ち方そのものを変えてしまう発想の柔軟さだった。秀吉は、相手の総大将は家康ではなく、信雄だということに着目。信雄方の城をターゲットに攻め始めた。
考えてみれば、これは理にかなった判断だった。そもそも今回の戦いの大義名分は、「織田家の正統な後継者である信雄を、専横を強める秀吉から守る」という一点にある。家康がどれだけ戦場で強くとも、その大義名分を支える信雄自身が崩れてしまえば、家康は戦い続ける名目そのものを失ってしまう。
秀吉は、軍事で分の悪い家康と正面から消耗戦を続けるよりも、信雄という「戦いの根っこ」を直接叩くほうが、はるかに効率がよいと踏んだのだろう。
こうして秀吉は、加賀野井城や竹ヶ鼻城、さらには伊勢の蟹江城など、信雄方の城を次々と標的にしていく。5月には加賀野井城を攻略すると、続く竹ヶ鼻城では、周囲に堤を築いて川の水を引き込む「水攻め」を敢行。城は水に浸り、城主・不破広綱は降伏を余儀なくされた。
さらに6月には、蟹江城をめぐる攻防戦が起きる。秀吉に与した滝川一益は、かつて織田信長のもとでともに戦った九鬼嘉隆の水軍を伴い、海路から蟹江城に兵を送り込んだ。さらに城の留守を預かっていた前田長定を懐柔し、蟹江城を奪取した。信雄・家康方も直ちに奪還に動き、一益は半月あまり籠城したのち、開城に追い込まれている。
信雄は単独で兵を引いてしまう
一つ落としては、また次の城へ。家康もその都度、援軍を送らざるをえず、両者の駆け引きは一進一退の攻防戦として長期化していった。
果たしてどっちが勝利したのか?
11月、ついに秀吉は信雄との講和にこぎ着ける。信雄からすれば、これ以上、自分の城が一つずつ落とされていくのを見過ごすわけにはいかなかったのだろう。信雄が単独で兵を引いた以上、家康にはもはや戦い続ける大義名分は残されていない。家康も軍を引くほかなくなってしまう。
11月5日の時点で秀長が近江・蓮華寺に「ようやく帰陣」と記しているように、8カ月にもわたった小牧・長久手の戦いは、静かに幕を閉じることになった。


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