和睦の条件は、元親の出身地である土佐一国を安堵すること。秀長は7月25日に元親の家臣にその旨を書状で送っている。2日後の27日に秀吉から届いた書状では「和議については秀長に任せる」と改めて一任する旨が伝えられたが、こんな非情な内容も通告されている。
「もし、和議の交渉が頓挫したならば、一宮城と脇城に籠る者は一人残らず、首をはねる。元親についても、ワシが土佐にも物見遊山するついでに、その首をはねよう」
この非情さこそが秀吉がここまで来られた要因だが、秀長からすれば、そんな兄が頼もしくもあり、危なっかしくもあり、といったところだろう。
秀吉が出陣していたらどうなったか
もし、秀吉の出陣を秀長が制止してなければ、相手方の被害は甚大なものとなり、遺恨にもなりかねなかった。秀長は己の判断の正しさを実感しながら、和議をまとめようと必死になったことは言うまでもない。
蓋を開けてみれば、秀吉から四国平定の命が出てから、わずか2カ月後の8月6日に講和が成立。長宗我部元親は土佐一国を安堵され、四国平定が無事に完了することとなった。
秀吉を陰に陽にフォローしながら、戦にもめっぽう強い。
そんな秀長は、もはや秀吉の補佐役にはとどまらず、天下人を支える最強のナンバー2として、その名を馳せた。
【参考文献】
杉山博編『多聞院日記索引』(角川書店)
竹内理三編『史料大成多聞院日記〈全5巻〉』(臨川書店)
河内将芳著『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(戎光祥出版)
柴裕之編『豊臣秀長 シリーズ・織豊大名の研究』(戎光祥出版)
新人物往来社編『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社)
河合敦著『豊臣一族 秀吉・秀長の天下統一を支えた人々』(朝日新書)
真山知幸著『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(日本能率協会マネジメントセンター)



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