「還俗して自分に奉公するつもりがあるならば、魚を食べて出家を辞めよ。出家を続けたいのであれば、よそに散ってもよい」
てっきり殺されるものだと思っていた根来衆たちは、この秀長の温情に驚いたという。
また雑賀衆が立て籠る太田城においては、秀吉勢が水攻めを断行。実行する前に、やはり秀長が女性や子供の助命に動いたと見られている。
秀長の懐の深さは、豊臣家臣のみならず、敵対する勢力にも発揮されることとなった。
兄が病になり総大将デビュー果たす
紀州攻めによって、根来衆と雑賀衆を屈服させると、秀長は但馬・播磨国から紀伊・和泉国に移封される。
さらに秀長は秀吉から「紀ノ川河口部の岡山に城を築くように」と命じられて、城の建築に着手。普請奉行を担当するのは、築城の名人として知られる藤堂高虎だ。まずは本丸と市の丸が築かれた。
その頃、岡山の地といえば、北側は紀ノ川、東は和歌川、南と西は海に面しており、海と川に囲まれた寒村にすぎなかったが、秀長の築城によって、城郭へと発展を遂げることになる。
「賤ヶ岳の戦い」と「小牧・長久手の戦い」と立て続けに大きな戦を行い、さらに、紀州征伐も行った秀長。じっくり築城に取り組みながら、一息つきたいところだが、天下人へと邁進する兄と並走するとなれば、そういってもいられない。
もはや兄の補佐役としての役目を果たせば、それで十分と言えない立場だ。賤ヶ岳の戦いなど、実質的な大将であったときもあったが、自分もまた兄のように大きな戦で結果を残したい、いや、残さねばならない。任される領地が増えていくなかで、秀長にもさらなる成長が求められることとなった。
秀長が初めて総大将を務めたのは、まさにそんな折だった。秀吉は四国への出陣を決意。当時、四国を統一していた長宗我部元親を討つべく、自らが乗り込んでいく予定だったが、病によって難しくなってしまった。
「兄者、大事ないか。このところ戦が続いたから無理がたたったのかもしれぬ」
秀長は兄が病に伏せた坂本城を5月27日に訪ねている。見舞いにいって、そんな言葉でもかけたのだろう。


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