2人の教えを基軸にしながら、調査で得たデータを基に考え抜いた末、すし屋の開店を決意した。数ある飲食業の中でも、あえてすし屋を選んだのは、原価率は高いものの、客単価や利益率も比較的高かったからだ。
こうした利益構造に加え、当時のすし店は価格表示が不明瞭で、オペレーションも属人的だった。店舗規模も小さく、産業化が進んでいなかった。改善すべき課題が多いことこそ、むしろビジネスチャンスだとにらんだ。
修行先は大阪・黒門市場の高級すし店。仕込みという地味な仕事を任されながら、志願して魚市場の仕入れに同行した。シャリ炊きを手伝い、職人の指導に耳を傾けた。
過労で何度も倒れながら、わずか1年で店を持てるだけの技術を身につけた。一人前になるまでに何年もかかるのが当たり前とされる世界で、あえて回り道をせず、必要なものだけを最短で吸収しようとした。
63年、大阪・十三に4坪半、カウンターだけの店を開いた。庶民の街であると同時にすし店同士の競争が激しい地域でもあった。これが「がんこ」の始まりである。
当時のすし屋の値段は「時価」とされ、不明朗だった。そこで小嶋氏は価格を明示した。値の張るマグロはあえて外し、手ごろな値段で確かなうまさを味わえるネタを選んだ。「安いものをうまく」ではなく「うまいものを安く」。この順番へのこだわりが、サービスの基本だった。この価格表示が評判を呼び、店には行列ができるようになる。
「新しい日本料理のジャンルを作る」
小嶋氏は「経営の勘や運を呼び込む力は、経営者自身も現場に足を運ぶことから生まれてくる」「困難や問題に直面するほどありがたいことはない。それを克服しようと懸命になることでチャンスは生まれるものだ」と語っていた。店に立ち続けた17歳のころから変わらない、現場主義の哲学だった。
小嶋氏にロングインタビューを行った神戸大学大学院経営学研究科の吉村典久教授は、この明朗会計を取り入れたビジネスモデルや、早い時期から配膳などの作業の機械化にも取り組んでいた点を挙げ、小嶋氏を食の業界における「偉大なるイノベーター」と評している。


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