大正から昭和にかけて、男子生徒の丸刈り坊主頭が定着し始めます。契機になったのが1925年(大正14年)の「陸軍現役将校学校配属令」です。これにより、中学校(旧制)以上の学校で軍事教練が必須となりました。
この時期に、学生服も軍服を模した「詰襟(現在の学ラン)」へと統合されていき、それに合わせる形で「軍人に倣った丸刈り」が標準化していきました。つまり、前回見た軍隊式行進と同じように丸刈りも詰襟学ランも軍事教練がもとになっているのです。
終戦後、GHQの民主化指導により軍国主義的な丸刈りは見直され、生徒の髪型の自由化が進みました。1960〜70年代前半には欧米の若者文化(ビートルズ等)の影響で長髪が大流行し、学校でも容認されていました。
不良文化が問題に、丸刈りの校則化へ
しかし、その後1970年代後半になると校内暴力と不良文化(ツッパリや暴走族など)が社会問題化し、大きな危機感を持った学校は生徒の行動や外見を徹底的に規制する「管理教育」へと舵を切りました。
その強力な統制ツールとして「丸刈り」の校則化がありました。髪の毛と服装の乱れは心の乱れということで、反抗の芽を摘むための手段として丸刈りが義務化されたわけです。1980年代にはそうした学校が全国の中学校の3分の1に上りました。
この後、昭和の終わり(1980年代後半〜90年代)に「管理教育批判」と「校則見直し運動」が起こるまで、多くの地域で男子中学生は丸刈りが当たり前という状態が続きました。
大規模な校則見直し運動が起きた理由は、行き過ぎた管理教育への反発と批判が巻き起こったからです。当時、髪型だけでなく服装や持ち物まで細かく縛る過剰な指導や、それに伴う「体罰」が深刻な社会問題になっていました。そんな中で管理教育に関連するいくつかのできごとや事件が続きました。
1985年に日本弁護士連合会が「非合理的な校則は人権侵害にあたる」という報告書を出し、学校の管理教育のあり方に強い警鐘を鳴らしました。
1985年には、丸刈り強制の違法性を問う裁判(丸刈り訴訟)も起きました。
1988年には「卒業アルバム写真差し替え事件」が起こりました。ある中学で校則に合わない髪型をした生徒4名の写真を卒業アルバムから外し、花壇の写真に差し替えた事件です。これは社会から大きな批判を招きました。


※ログイン後、コメント入力が可能です。