大河ドラマ『豊臣兄弟!』をきっかけに、豊臣秀吉とその弟の豊臣秀長の関係に注目が集まっている。
母はともに、のちに「大政所」と呼ばれる、通称「なか」だとわかっているが、父親は判然としない。なかは最初に結婚した木下弥右衛門と死別し、 竹阿弥と再婚したとみられているからだ。
失敗しないイメージの秀長だったが
近年は同父説、つまり、父親は2人とも、なかにとって最初の夫である木下弥右衛門が父だと有力視されているが、従来は秀吉の父が木下弥右衛門、秀長の父が竹阿弥だとされてきた。
それには理由があり、江戸時代の儒医・江村専斎による随筆『老人雑話』に、こんな逸話が伝わっている。ある戦で秀長が失態を犯すと、激怒した秀吉が弟にこう口走ったというのだ。
「御身とわれは、種が違ったり!」
つまり「お前とは父親が違うのだぞ」ということ。ただし『老人雑話』は秀吉と秀長が生きた時代から半世紀以上あとにまとめられた聞き書きで、同時代の一次史料ではない。
逸話の信憑性はともかく、あまり「失敗」のイメージがない秀長が、戦で何をやらかしたというのか。
その戦こそが、秀吉が柴田勝家と激突した「賤ヶ岳の戦い」である。
「本能寺の変」で織田信長が明智光秀に討たれるやいなや、すぐに駆けつけて仇討ちした秀吉とは対照的に、勝家は駆けつけることができなかった。
というのも、本能寺の変が発生した天正10(1582)年6月2日時点では、勝家は魚津城で上杉軍との攻防を続けていた。


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