落城させたのは翌3日のことだ。そこから急報を受けた勝家は、急いで向かうも、途中で上杉から再度攻撃を受けて立ち往生させられている。結局、勝家が近江に到着できたのは、秀吉軍が6月13日の「山崎の戦い」にて光秀を討ったあとのことだった。
そのため、清須会議では、秀吉が河内・丹波・山城・播磨を獲得する一方で、勝家が再配分によって得た領地は、秀吉の旧領であった近江長浜のみ。もともと自身の所領であった越前と合わせても、秀吉より領地で劣ることになる。
これまで勝家は信長の重臣筆頭だったが、秀吉と完全に立場が逆転することになった。
「勝家が信長様の葬儀を邪魔するかもしれんな……」
そう警戒した秀吉。勝家が出兵しにくい豪雪の時期に信長の葬儀を行った(前回記事:秀吉も信長の葬儀に全力を注いだ…「権力者の死」で《弔いの主導権》が争われる"納得の背景")。それだけでは安心できず、当日は秀長に厳重な警護にあたらせることにした。
実は以前にも秀吉と勝家は衝突したと伝わる。天正5(1577)年に、加賀国・手取川周辺で、上杉謙信軍と、柴田勝家率いる織田軍が戦った「手取川合戦」だ。
謙信軍と戦う七尾城への援軍として織田勢4万が出陣したにもかかわらず、七尾城落城の報に接して、秀吉は戦わずして帰陣してしまった(『長家家譜』)。そこには、勝家と対立があったと伝わる(『信長公記』)。
戦を放棄した結果、秀吉は信長から叱責を受けることになるが、それでもよいと思えるくらい、「勝家とはやっていけない」という思いがこのときにはあったのだろう。
そんな手取川合戦から6年の月日が流れた天正11(1583)年、秀吉と勝家はついに、決着をつけることになった。
勝家軍と対峙した秀長の冷静な判断
先に動いたのは、勝家のほうだ。雪解けとなる3月に、勝家は北ノ庄城から出陣する。
その頃、秀吉はといえば、織田信孝を討つために、美濃の大垣城へと向かっていた。秀長は秀吉に援軍を要請しながら、近江と越前国境付近に築いた砦において、勝家軍と対峙した。
勝家方は、勇猛さから「鬼玄蕃」の異名を持つ佐久間盛政を先鋒とし、大岩山砦にいる中川清秀を急襲。4月19日頃のことである。
このときに秀長はほとんど動くことなく、秀吉軍を待った。
「ここは敵を充分にひきつけておかねば……」
そう考えたらしい。秀長の狙い通りに、秀吉が大軍を率いて押し寄せると、慌てて退却する佐久間勢を賤ヶ岳付近で撃破に成功している。


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