「それでも、まだ海外に行くっていうのはすごく特別なことでした。出発の日、空港には親戚や友人が40人くらいも見送りに来てくれて、花束を渡されて。ありがたかったですが、この花束、成田に着いたらどうしようって(笑)」
こうして1985年、初めて日本の地を踏んだ。
「私は国費留学生ではなかったですが、専門学校の日本語学科に入ったんです。高田馬場の学校でした。駅前には、いまもありますがBIG BOXが建っていて、こんな高いビルは釜山にはないってびっくりしたのをよく覚えています」
ほんの9階建ての商業ビルを、鄭さんは驚きとともに見上げた。いまでこそ巨大都市として成長し、超高層ビルが林立する釜山だが、40年前の日韓の差はまだ大きかった。
来日当初は学校が手配してくれたアパートに住んでいたが、やがて新宿の飲食店でアルバイトをするようになり、すぐそばの新大久保で暮らし始めた。
「あの頃は韓国の店が数軒しかなかったんですよ。職安通りに小さな食堂がぽつぽつあったくらいかなあ」
1950年にロッテの工場が建てられ、韓国人労働者が集まるように
いまは韓流女子で賑わう大久保通りは、ごく普通の日本の商店街だった。もともとこの街に住む韓国人は、決して多くはなかったのだ。1950年、現在の新大久保駅のそばに、在日韓国人が創業したロッテの工場が建てられ、韓国人労働者が集まるようになったともいわれる。だが、それも大きな数ではない。むしろ新大久保から職安通りを挟んで南側、歌舞伎町のほうに、古くから日本に住む在日韓国人経営の店がいろいろあったそうだ。
「それが変わったのは1989年だと思います」
韓国でも、海外旅行が自由化されたのだ。前述の「10万人計画」もあって、来日する留学生は急増。住む場所として、日本語学校がいくつかあった高田馬場や新大久保など、新宿区を選ぶ人がとくに多かった。その留学生たちがお腹を満たす食堂や食材店、国際電話の店なども新大久保には少しずつ増えていく。
1998年には、小渕恵三首相と金大中大統領が「日韓共同宣言」を発表。これを機にそれまで韓国では制限されていた日本の大衆文化(映画・音楽など)が解禁、人気を集めるようになっていく。ワーキングホリデー制度も互いに始まり、人の往来が盛んになる。新大久保に住み、学ぶ韓国人の若者は、さらに目立つようになっていった。


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