ビジネススクールの話が長くなったが、小学校の授業も同じことである。日本の教育に関する一般的な批判、「日本は受験教育、詰め込み教育」だから、その弊害がある、とよく言われるが、私にはピンとこない。幸か不幸か、そういう経験が一度もない。九九以外に記憶がない。
研究者としても、論文の書き方では「まず、先行研究を調査して」、と日本の教授たちで教える人が多いようだが、私のゼミでは、先行研究の調査は禁止である。せっかくの感性が、先行研究に汚されて、凡庸な研究しかできなくなる。
私だけでなく、ハーバード大学でも、グレゴリー・マンキュー教授は、自分では、先行研究を見るのは、最後だ、と言っていたし、先行研究などと言っているクラスメイトも教授もみかけなかった。みんな新しいことを自分で見つけるその瞬間だけが快感で、その後の99.99%は苦しく、退屈な、検証とレフェリーとの戦いが待っているから、その唯一の楽しみを先行研究に汚されたくない、と思っていた。
実際、小学生の時も、国語の教科書に載っている芥川龍之介の「トロッコ」はつまらなかったが、図書館で見つけた「鼻」「蜜柑」とかは、面白すぎて、小学生向けの芥川全集を読み漁ったものだ。
そういうことなのである。
自分で感じ、見つける。その場を整える。それだけが、教師、学校の務め、役割なのだ。詰め込み教育をしている教師がいるとすれば、それは、制度的に余裕と時間がなさすぎて、そうしている、そうやらされているだけで、そんなことをやりたい教師は、本当はいないのだ。もちろん、やりたい子供たちもいない。悪いのは、制約条件なのだ。
初等教育が今後の日本を強くする
私が小学校1年生のとき、担任の先生は、国語の時間にこんな授業をしてくれた。学校の「心理学研究室」というところに行く。そこには何にもない円形の舞台があって、そのまわりを囲んでみんなが座る。そこで、ロールプレーイングというのをやって、ビデオに撮ったものを、後でモニターで、クラスのみんなと一緒に見て、感じ、考え、議論する、という授業をやっていた。
教科書はまったく消化されていなかったが、それが許された素晴らしい学校だったが、トモエ学園ならずとも(黒柳徹子の『窓際のトットちゃん』に出てくる学校)、このくらいは、どこの学校でも、制約条件を外せば、できるはずだ。そうすれば、空気を読む、と称して、誰の気持ちもわからないままびくびくして、場の空気を動かさない、影響を与えない、自分の存在を消すことだけを学ぶことから解放され、正面から、友達の気持ち、隣の人の気持ち、知らない人の気持ちを想像することができるようになり、あるいは、想像しようとするようになる。実際には、わかり合えないから、想像しようとする、ということが重要であり、それで十分だ。
「感じる」ことから「観察」に移るために必要なのは、想像力であり、それを鍛えるには、アニメでも少しはできるが、動かず、声も出ない「マンガ」の方が、効果は大きいし、視覚を使わずに想像する「読書」なら、もっと効果が高くなる。SNS「動画」が、想像力と相手の立場に立つことを失わせる意味で、最も害悪なのは間違いがない。
今回は、日本の真の成長戦略について議論してきたつもりだ。結論は、このような小学校教育をすることが、どんな時代の変化に直面しても、柔軟に感じ、想像し、みんなと、社会と生きていける力をつけること、日本(だけではないが)を強くことになるのだ。
蛇足だが、ネットで、こういうことを伝えるニュースが飛び込んできた。「文部科学省は、情報モラルやメディアリテラシーなど情報教育の授業時間数を大幅に拡充する案を中央教育審議会(文科相の諮問機関)の特別部会で示した。小学校では『情報の領域』、中学校では『情報・技術科』(いずれも仮称)を新設する」ということだ。
詰め込み批判をして、もっと質の悪い詰め込みをする(しかも間違ったことを教え込む)日本の大人たちはどうなっているのか。それは知識として教えるのではなく、今回述べてきた感性と想像力、相手の立場に立つ、ということ以外に方法はないし、それをやれば、情報どころか、人生のすべてが開けるのだ。もっと大人たちにも、ビジネススクールに来てもらう必要がありそうだ(本編はここで終了です。この後は競馬好きの筆者が競馬論を語ったり、週末のレースを予想するコーナーです。あらかじめご了承ください)。

