この「鳥取の渇(かつ)え殺し」では、秀吉は鳥取周辺の兵糧を相場の2倍で買い占めてしまうという徹底ぶりで、4カ月あまり完全封鎖している。
餓死者はすぐに出たようだ。 『信長公記』には、次のように記されている。
「因幡国鳥取郡の一郡の男女は、ことごとく鳥取城中へ逃げ入って立て籠もった。下々の農民以下は、長期戦の心構えがなかったので、即時に餓死してしまった。はじめは五日に一度か三日に一度鐘をつくと、それを合図に雑兵が城柵まで出てきて、木や草の葉を取り、中には稲の根っこを上々の食糧とした」
木の皮や実を食べて凌いだ兵士たちだったが、やがて尽きると、飼育していた牛馬を食らい、それもなくなると、戦死者の死肉へと皆が群がったというから悲惨である。
鳥取城の攻めについては、信長が秀吉に出した書状に「小一郎陣所」とあることから、秀長も因幡に出陣している。「三木の干殺し」に続いて、容赦しない兄の姿を目の当たりにして「自分ならばここまでできるだろうか」と、秀長も思わずにはいられなかっただろう。
「人を斬ること、秀吉嫌ひにて候」
なるべく人は切りたくない。秀吉は書状によくそう書いている。これだけ読むと、大河ドラマ『豊臣兄弟!』における秀吉のキャラクターと合致するが、これは単に自分が現場で人を斬るのは、非効率的だということにすぎなかったのだろう。
秀吉は信長以上に残虐だった
大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、秀吉が「こたびの鳥取攻め、見事であった」と周囲から褒められるのみで、戦の詳細は描かれなかったが、残忍な行為もいとわなかったという点では、秀吉は主君の信長以上だった。
そのように吉川経家を「鳥取の渇え殺し」で討伐すると、次の狙いは備前と備中である。秀吉は「リーダーたるものかくあるべし」と弟に伝えるかのように、天正10(1582)年には備前・備中へと進軍しながら、こんな趣旨の書状を秀長に出している。

