また、秀吉は朝鮮に2度も侵略戦争を行い、民衆を殺戮(さつりく)しながら進軍。それも、国内の戦いのように、首を斬って持って帰れば、論功行賞の証拠となるが、いかんせん日本まで持ち帰るのが大変だ。そこで、豊臣軍は殺した相手の耳や鼻を切った。
もっとも戦国時代においては、国内の戦においても、論功の証しとして、耳や鼻をそぐのは珍しいことではなかったが、秀吉の場合は、それとは少し異なる。こんな取り決めを行っている。
「集めた鼻が、枡一升分になった者から住民の生け捕りを認める」
住民を生け捕りしたければ、ノルマを達成しなければならない。秀吉にあおられて、朝鮮の戦場では、耳鼻そぎが横行。切り取った耳や鼻は、塩や酢に漬けられて、秀吉の元へと送られたという。それも兵士だけではなく、子どもや赤ん坊も犠牲になった。
兵糧攻めで敵軍の兵が数多く亡くなる
もっとも、秀次事件にしろ、朝鮮出兵にしろ、弟の秀長が没した後のことだ。「秀長という信頼できるナンバー2を失ったことで、秀吉の暴走を招いた」と解釈することもできる。時系列的にも、大河ドラマ『豊臣兄弟!』では描かれない秀吉の蛮行となる可能性も高い。
だが、信長が「本能寺の変」で討たれる前の時点から、すでに秀吉の残虐性は戦場で発揮されていた。
天正6(1578)年、播磨最大の勢力だった別所長治が織田方から毛利方へ寝返ると、秀吉は三木城を攻略すべく、8000もの兵が飢えに苦しむように追い込んだ。同時に、たくさんのかがり火を焚いて、夜も眠らせずに体力を奪ったというから執拗だ。この兵糧攻めはなんと1年10カ月も続けられたという。
城に閉じ込められた兵たちが、雑草やぬかを食べていた頃はまだましで、そのうち牛や馬などの家畜を食べ、それも尽きれば死人の肉を食べたというから地獄絵図である。
この「三木の干殺し」こと三木合戦で敵軍の討伐を果たすと、同じく信長に反旗を翻した、毛利氏の吉川経家がこもる因幡の鳥取城へと攻め込んでいく。
そして天正9(1581)年に鳥取城を包囲。3000の兵を兵糧攻めで追い詰めている。

