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キャリア・教育 #戦国最強の兄弟の軌跡

「まさか信長が死ぬなんて」 "本能寺の変"発生で家臣は大混乱も、信長に抱いていた《正直な印象》

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本能寺の変が発生。そのとき信長に仕えていた家臣たちは?写真は高松城跡(KAKU / PIXTA)
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それに対し、秀吉は「それがしが備中に入ってすでに30有余日。御敵・清水宗治を攻囲しています。しかし御見聞のように城は堅固。はかりごとなくいたずらに力攻めしては、(我々が)地理不案内ということもあり、味方の損害も大きく、しだいに敵方につけいる隙を与えましょう。それがしは敵地をよくよく見定め、心に計略も持っています。当地に御内府(信長)の御出馬あるまでには、必ず高松城を落城させるよう尽力致します。何卒、筑前(秀吉)の覚悟を(信長に)申し上げられて、御取次をお願い致したい」と返答するのでした。

久太郎はその旨を承知し「ご油断なきように」と言い残して去っていきます。

久太郎が帰ってから、秀吉は諸将を集めます。その席で高松城の水攻め(城上方において大小谷川数条をせきとめ、百五十有余町残らず水浸しに致す行=てだて)が決定されるのでした。

その一方、秀吉に仕えていた前野将右衛門(長康)は、播磨国三木におりました。信長が備中に出馬するということで、宿所・兵糧などの手配をするためです。

本能寺の変が発生!そのときの家臣の反応

そうした中、運命の天正10年6月2日を迎えます。『武功夜話』によると同日「亥の刻」、丹波国の細川藤孝(子息の忠興は、光秀の娘ガラシャを妻としていた)から、播磨の前野長康に使者が訪れます。その使者は「密書」を持参していました。

長康はその密書を読み「慄然として声なし」という有様だったようです。その場に居合わせた者たちは、上方においてどのような異変があったのか、急変があったのか。しばらくの間長康の顔色を見ながら、問いかけることはありませんでした。

長康は顔面蒼白で無言。やっと呼吸を整えて、藤孝からの書状内容を語り始めます。

「明智光秀が逆心、洛中の御宿所・本能寺に軍勢を差し向け不意を討ち、御運拙く御最期の注進である」

同書(『武功夜話』)には、その言葉を聞いた一座の者らは、気が動転し、なす術を知らなかったとあります。

そこで口を開いたのは、前野宗高でした。

宗高は早口で「明智の大軍が日を追って播州に乱入するは必定。これに対抗するだけの人数は、播州にはございません。筑前様(秀吉)は備中におられます。姫路在番の者と我らを合わせて1千人に足らず。播州の進退、殿(長康)はどのようにお考えか」と詰め寄ります。

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